「将棋は歩から」という本を読んだことがあるでしょうか?加藤治郎名誉九段の書籍です。

 この本は、一冊丸ごと「歩」に関する本です。いや、一冊丸ごとどころではなくて、なんと全三巻もあります。加藤先生の本気を感じます。なんといっても、将棋において、「歩」は最強の駒というわけではありません。ポケモンで言うとポッポです。ポケモンの攻略本を買ったらポッポの生態系が全三巻で書かれていたら結構びっくりします。
 では、なぜこの本は、名著と呼ばれる本なのでしょうか?

将棋は歩からで紹介された手筋

なんとここでは、18個もの歩の手筋が紹介されています。

  • 前進の歩
  • 交換の歩
  • 突き違いの歩
  • 蓋歩
  • 突き捨ての歩
  • 継ぎ歩
  • 垂れ歩
  • 焦点の歩
  • 死角の歩
  • ダンスの歩
  • 単打の歩
  • 合わせ歩
  • 十字飛車の歩
  • 連打の歩
  • 成り捨ての歩
  • 控え歩
  • 中合いの歩
  • 底歩
  • 直射止めの歩
  • 面打の歩紐歩

使われているものも使われていないものもありますが、半分くらいは未だ現役です。もちろん全てを加藤名誉九段が命名されたわけではないですが…。
これほど多くの「手筋」を発明され、体系立てて書籍にされたことこそ、加藤治郎名誉九段の特筆すべき業績と言えます。

利用可能性ヒューリスティック(想起ヒューリスティック)

 本の紹介をする前に、少し前段の話をしておきたいのですが、少し小難しい話です。認知心理学には利用可能性ヒューリスティックという言葉があります。
 エイモス・トバルスキーとダニエル・カーネマンという、心理学におけるビッグネーム、二大巨頭が書いた有名な論文で紹介されています。

カーネマンは著作の「ファスト・アンド・スロー」で、こんな例を紹介しています。

 近所の人がスティーブのことを次のように描写しました。「スティーブはとても内気で引っ込み思案だ。いつも頼りにはなるが、基本的に他人には関心がなく、現実の世界にも興味が無いらしい。物静かでやさしく、秩序や整理整頓を好み、こまかいことにこだわる」。さて、スティーブは図書館司書でしょうか、それとも農家の人でしょうか? 

 当然のことながら、多くの人は図書館司書だと答えるでしょう。わかりやすいからです。手に入るあらゆる情報は彼がトラック運転手や農家よりも司書に近いと示しています。ところが、問題があります。アメリカには、司書は農家の1000分の1しかいないのです。ということで、統計的に考えればスティーブがどれほど物静かで優しかろうとも、彼は司書よりも農家である可能性が高いと考えられます。
 このように、自らの脳から取り出しやすい情報ほど、人は正しいと思いがちです。

 カーネマンの理論に従うと、利用可能性ヒューリスティックというのは非常に重要です。言い換えるなら、正しい選択の利用可能性を上げておくことで、正しい選択ができる可能性が増えるのです。

抽象化する力

 

 例えば、先日の藤井聡太六段と糸谷哲郎八段の対局におけるこの局面。終盤です。先手の藤井六段の竜が、後手の糸谷八段の玉に王手をかけています。これを、少し専門的ですが「一間竜」と呼びます。この局面で仮に金を打って王手を防ごうとしても、銀を打てば受かりません。

 この局面で、後手は金で先手の銀を取ることが出来ません。竜が王を睨んでいるので、王が取られてしまいます。ということで△9三玉と逃げますが、▲7二竜と金を取ることが出来ます。これは、プロレベルならもちろん一瞬で分かりますし、アマチュアでもある程度のレベルに達すれば、一瞬で分かる形です。
 実践も、糸谷八段はもちろん金を打たずに△9三玉と逃げましたが、最後は藤井六段が華麗な即詰みに打ち取りました。

 結局現れなかった局面ではありますが、もし、一間竜の手筋を知っていれば、我々もプロと同じような着手が簡単にできるのです。これは、ヒューリスティックを利用してより効率的にゲームを進めることが出来たという好例ではないでしょうか。手筋を言語化されて知っているケースと、知らないケースで、どれほど変わってくるか、と考えてください。

 「将棋は歩から」の実践例で上げられているのが、大山康晴15世名人と、加藤一二三九段の対局です。

 先手の加藤一二三九段の角が1一の香車を睨んでいます。しかし、「史上最強の棋士」が指した△5五歩が好手でした。
 ▲5五角と角で取ると、△5四香といわゆる「田楽刺し」(コレも手筋ですね)が決まり、▲5五飛と取ると角が成り込むことができなくなります。これが「焦点の歩」です。
 ここでも、手筋を知っていればアマチュアでも正嫡を見つけられるかもしれません。つまり、手筋を知っているだけで大名人と同じ手を打てる確率が上がるわけです。

 理研による将棋プロ棋士の脳から直感の謎を探るによると、下記のような記述があります。

最初は、うまくいかないので、いろいろな神経回路を総動員する。やがてスムーズに処理できる神経回路が特定領域にできていくと考えられます。直感=小脳の予測という仮説でいえば、より精密な予測が可能な内部モデルができることに相当します。

 自分の中の手筋(言語化出来るものも出来ないものも含めて)を、プロは作っていると考えられます。

 冒頭に述べた「将棋が強くなる一番早い方法」は、このような「手筋」「形」を覚えることです。要は、考えなければ良いのです。考えなくてもわかるレベルまで手筋を覚えておけば、好手の引き出しが増え、その引き出しが増えれば正しい選択をしやすくなります。
 もちろん、将棋はそれだけで勝てるほどカンタンなものではありませんが、「考えなくて住む局面を増やす=形として判断できる局面を増やす」事ができれば、勝てる確率が上がるというのは決しておかしな話ではありません。
 正しい手を指すことを心がけるのではなく、引き出しを増やすことを心がけること。これが重要です。加藤治郎名誉九段は、まさにそのような「歩の引き出し」を体系化し、全三巻も書けて記載しようとされていた点で、特筆すべき研究者であったと呼べるでしょう。
 

おすすめの手筋本

寄せの手筋本、むちゃくちゃ有名ですが超おすすめです。

“将棋が強くなる一番簡単な方法は、考えないこと” への2件のコメント

  1. 本買ったんですが、読み切れてなかったです。また読んでみようと思いました。心理学の話も面白かったです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。