加藤一二三、満開の春

 

人生とはわからないものだな、と思う。

朝起きてテレビをつけると、自分が将棋を始めた時は、孤高の人、変人、頑固者、孤独な大棋士であった加藤一二三九段が、楽しそうにコメントをしている。

河口俊彦氏が、あるいは真部一男氏が存命なら、この空前の「ひふみんフィーバー」に何を語っただろうか。

加藤一二三という棋士を、将棋を知らない人はどう思っているのだろう。
神武以来の天才。史上最年少棋士。それはもちろん、間違っていない。

「加藤一二三九段は強かったの?」と聞かれれば、迷うこと無く「強い」と答える。それでも、そこにいくばくかの含みは残るはずだ。あれ程の大棋士でありながら。

大棋士、加藤一二三

成績だけを見れば、加藤九段の成績はこうなる。

  • 2505対局(歴代最多)
  • 1324勝(歴代三位)
  • 1180敗(歴代最多)
  • A級順位戦 149勝(歴代最多)
  • A級在位 36期

 

  • タイトル獲得合計8期(歴代9位)
  • 六人目の実力制名人
  • 歴代二位のNHK杯優勝など、棋戦優勝23回

堂々たる成績だ。歴史に残る棋士と呼ぶにふさわしい。
また、加藤流袖飛車や加藤流棒銀、加藤流矢倉など、「加藤流」と名のつく戦法は多数あり、60年間の現役生活の中で、数々の定跡の発展に多大な貢献をしたことにもまた、触れて置かなければいけない。

タイトル獲得数だけではなく、長きに渡ってトップクラスの実力を維持し、60代に至るまで棋界の最高位であるA級順位戦で戦い続けたことは、特に驚くべきことだ。

しかし、それでも。神武以来の天才と呼ばれ、「名人に角を引いた男」升田幸三の後継者であり、20歳で名人位に挑戦した「神武以来の天才」加藤九段にかけられた大いなる期待は、この偉大な実績以上だったのかもしれない。

「史上最強の棋士」大山康晴の時代を打ち破り、加藤時代を築くこと。それが、加藤九段に期待されたものだったのだから。

ついに「加藤時代」は来ることがなかった。加藤九段は、いつも二番手、三番手であった。だからこそ、冒頭の「加藤一二三は強いのか?」という質問には、いつも僅かな含みが入る。

加藤九段は、ついに咲かなかった花なのだろうか?いや、そうではない。加藤一二三九段が、最強の棋士であった瞬間は、たしかにあったのだ。

加藤一二三、満開の春

1982年。加藤九段が初めて名人に挑戦してから、22年の時が過ぎていた。神武以来の天才も、既に42歳。中堅の棋士であった。

加藤一二三十段(当時)は、名人、中原誠に挑戦する権利を得た。中原名人は、既に永世名人の称号を獲得。大山康晴十五世名人の後、最強の棋士として君臨していた。

名人戦は中原名人有利。残酷ながら、それが42歳になってしまった「天才」加藤一二三九段への評価だった。

昭和57年7月30日。第40期名人戦は将棋史上最も拮抗したタイトル戦となる。大熱戦のまま、史上初の第十局にもつれ込むと、最終局は中原名人有利のまま進んだ。

ギリギリの混戦の中、加藤十段は時間を使い切り、秒読みとなる。詰みを発見できなければ負ける。しかし、まだ加藤十段は発見していない。痛いほど静まり返る控室。

時間が一秒一秒なくなってくる。その瞬間。

加藤一二三十段の手ははっしと持ち駒の銀をつかむと、敵陣にいつものような高い駒音で、その銀を打ち付けた。

▲3一銀。その瞬間、将棋の神様は、一瞬だけ、孤高の天才に微笑んだ。加藤十段がギリギリの中で発見した詰みだった。タダで取れる金を無視しての銀打ち。中原名人は次の手を指すこと無く投了を告げた。

「老師」河口俊彦七段はこのように記している。

加藤にあれほどの才能を与えた将棋の神様が、一度だけでも名人にしてやろうと思ったのだろう。

加藤一二三十段は、二十二年越しで棋界の最高位、名人位を獲得。十段と共にタイトル二冠となった。名実ともに加藤十段は「最強の棋士」になったのだ。

加藤一二三、四十二歳。遅咲きの満開だった。

引退にそえて

加藤一二三九段が引退会見「名局の数々を指してきました」63年の棋士人生に悔いなし(全文)

投稿日: 約63年間に及ぶ現役生活にピリオドを打った将棋の加藤一二三九段(77)が6月30日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館で引退後初の記者会見に臨んだ。 会見した加藤一二三九段=6月30日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館 …


こんな話をしたい。加藤九段の引退に際して、ふと思い浮かんだ情景だ。

神田川を歩くと、桜の木が植えられている。桜の花が咲くのは一瞬だが、その一瞬が人の記憶にいつまでも残る。

加藤一二三九段は、もう花が散ってしまった桜の木かもしれない。それでも、花は、確かに咲いていたのだ。見事なほど満開に、誰が見ても美しく。誰もが立ち止まってしまうほどに。

そして、その満開が一度でもあったかどうかは、きっと僕らの人生においてとても重要な事だと思うのだ。

あの昭和五十七年の七月、加藤一二三は確かに、最強の棋士だったのだから。

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