「恋愛適齢期」から考える、エピローグの始め方

年を取ってから見たい映画というのは、確実にある。
ナンシー・マイヤーズ監督の「恋愛適齢期」はその一本だ。

  • 老いてもチャーミングでユーモラスなジャック・ニコルソン
  • 老いてもまた美しく輝くダイアン・キートン
  • ひたすらクールでスマートなキアヌ・リーブス

の映画だ。

主演二人の演技がとにかく素晴らしい。五十四歳のダイアン・キートンが、見進めるたびに美しく見えてくるから不思議だ。

恋愛適齢期(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで

4.5 | 自分らしく生きている時が、「恋愛適齢期」。ジャック・ニコルソン×ダイアン・キートン×キアヌ・リーブス。豪華キャストで贈る、大ヒットラブ・コメディ! Rating PG-12 (C) 1995 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

 Amazon レビューより抜粋

ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンのかけあいの妙、そしてキアヌ・リーブスの美しさを楽しむ映画です。せりふ回しもウィットが効いていて面白いです。

J.ニコルソン、D.キートン、K.リーブスと豪華俳優陣を揃えながら、重厚な恋愛模様ではなく、洒脱な作品に仕上げている点が本作の持ち味だろう。特に、中高年の男女に対してはホロ苦いが勇気を与える笑い。

中高年齢の、不器用な恋模様を描いた秀作。出逢い最悪の二人がさまざまな出来事を通して徐々に、なくてはならない存在に変わっていくといった、定番的なストーリーですが、設定(ともに若い恋人的存在がある)やキャラクター、また劇中の台詞回しが、実に魅力的。

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「恋愛適齢期」の概要

物語の概要は極めてシンプルだ。二十代しか付き合わない、と心に決めているジャック・ニコルソン演じる中年の金持ちが、偶然若い彼女と言った別荘で、彼女の母親と出会ってしまい、そこで暮らすうちに彼女の方に心惹かれていく…というストーリーだ。

物語のメッセージ

作中ダイアン・キートンが「もうこんなことは起こらないと思っていた」というようなセリフを言う。

でも、それは起こるのだ。いつだって、物語は始まることを待っている。これはとても希望に満ちたセリフである。

美しいものが失われても、まだそこには美しいものが残っているのはずなのだ。

マイ・インターン

同じナンシー・マイヤーズ監督の「マイ・インターン」。

マイ・インターン(字幕版)

4.7 | 舞台はニューヨーク。華やかなファッション業界に身を置き、プライベートも充実しているジュールス。そんな彼女の部下に会社の福祉事業として、シニア・インターンのベンが雇われる。最初は40歳も年上のベンに何かとイラつくジュールスだが、やがて彼の心のこもった仕事ぶりと的確な助言を頼りにするようになる。そんな時、ジュールスは仕事とプライベートの両方で思わぬ危機を迎え、大きな選択を迫られる──。※本編終了後特典映像あり Rating G (C) 2015 Warner Bros. Entertainment Inc. and Ratpac-Dune Entertainment LLC. All rights reserved.

誰かが言った。「人生にはプロローグとエピローグしかないんだ」と。我々の人生には決して「本編」は訪れない。

アン・ハサウェイとロバート・デニーロの、マイ・インターンはそういう映画だ。

物語の概要

定年退職して妻に先立たれたロバート・デニーロ演じる老年男性は、たまたま街で見かけた「シニア・インターンプログラム」に応募し、アン・ハサウェイ演じる若手起業家のインターンとして働くこととなる。しかし、会社は問題山積で、新しいCEOを迎え入れるかどうか悩んでいて…。

物語のメッセージ

ロバート・デニーロは、かつて成功したビジネスマンであったが、既に「終わった」人間だ。ビジネスマンとして作中彼が活躍するシーンは一つもない。

それでも、彼は全く意に介さない。飼いならされた猫のように従順にアン・ハサウェイに付き従し、礼儀正しくハンカチを手渡す。ベットでバスローブを着て二人で映画を見ても、もちろん手すら握らない。

これを「あまりにも理想化された中年男性」と呼ぶ声がある。十分わかる。

しかし、それでも、やはりそれは美しいエピローグである。それは一つの完成された結末であり、正しいことが起こっているのだ。

これが、下手にデ・ニーロが、かつての仕事仲間に取り次いだり、上からアドバイスをしたりしていたら、きっとこの映画の軸はぶれたものになっていただろう。そして、多くの映画監督ならそういう手法を取っていたように思う。

別の側面から言えば、若く成功したように見える起業家で、美しい子供がいて、優しい夫が居るアン・ハサウェイに対しても、「それはただのプロローグなんだ」と語りかけている。

そう、これは人生の本編を生きているアン・ハサウェイと、その後のまた一つの違う物語を生きているロバート・デニーロの映画なのだ。

ナンシー・マイヤーズ

彼女の作品には一貫して「終わりなんてないんだ」というメッセージがある。

ハッピーエンドにも後日談があるし、後日談の先にはまた新しいスタートがあったりする。どこかでそれは暗い終わりを迎えて、そのトンネルの向こうにはさらに新しいスタートラインがあったりする。

しかし、それは一度「降りる」事が必要なのだ。ジャック・ニコルソンでいえば、若い女性を追いかけ回すのをやめ、ロバート・デニーロで言えば、成功したビジネスマンとしての自分を捨てなくてはいけなかった。

この世は素晴らしい。戦う価値がある

こう言っていたヘミングウェイは、最後にショットガンで頭を撃ち抜いて人生に幕を下ろした。
彼のエピローグは、美しくも悲しいものだった。

ノーベル文学賞を取り、アメリカ現代文学の燦然たる旗手として数多くの作品を残したヘミングウェイの頑強な肉体と堅牢な精神はすでに過去のものになっていた。

彼はきっと、ヘミングウェイであることを止められなかったのだろう。美しきエピローグが成立するためには、やはり一つの物語を終える必要があるのではないか。重く背負っていたものを降ろして、また新しい旅に出る必要が。
そういうふうにすれば、物語は続くのだ。ゴールテープの向こう側に、また新しいスタートラインがあるように。

「帰ってきたヒトラー」とアドルフの帰る場所

「帰ってきたヒトラー」は、良質なフィクションであると同時に、現代社会と過去の連続性を切り出す、とても重要な作品だ。

帰ってきたヒトラー(字幕版)

4.2 | この映画、笑うと危険。世界中で売れまくり!ベストセラー小説を映画化!ヒトラーが現代にタイムスリップし、人気芸人に!?ギャップに笑い、まっすぐな情熱に惹かれ、正気と狂気の一線を見失う、世にも危険なコメディ!(C)2015 Mythos Film Produktions GmbH & Co. KG Constantin Film Produktion GmbH Claussen & Wöbke & Putz Filmproduktion GmbH

「帰ってきたヒトラー」Amazon レビューより抜粋

原作と映画では結構違いがあります。原作では本を出すところで終わりましたが、映画では本を出した後のことも描かれています。

映画撮影と言うことを隠して、ドイツ国民にインタビューをしたり、ドキュメンタリー風の演出をしたりと、少し風変わりな撮影をした映画でもあります。最初はただの不謹慎な物真似芸人程度の扱いだったのが、少しずつ支持を得ていく様は、映画だと分かっていてもなかなか恐ろしいです。

内容もヒトラーに拒絶反応する人達が安心?する脚色が随所にちりばめられており、目くじら立てる様なスキャンダラスシーンは無いに等しい

帰ってきたヒトラーとは?

この作品は、一部がフィクション、一部がノンフィクションだ。ノンフィクションのパートでは、アドルフ・ヒトラーが現代に蘇ったら?という設定で、実際の街の人達にインタビューを行っている、フィクションとインタビューの融合的作品だ。

主演の(もちろんヒトラーを演じた)オリヴァー・マスッチは、「まるでポップスターだった」と語り、ヒトラーとセルフィーをしたがる国民に驚いたという。

それほど、ヒトラーに対する拒否感は薄れていた。

それは、ある意味で我々の世界とヒトラーのいた時代は地続きではないか、ということを、監督のデヴィット・ベントは言っている。

変わらない世界

世界は好き嫌いで動いている。それは 1933 年も、今も変わらない。一つの人種を憎み、権力のすべてを手にしたヒトラーを、21 世紀の今我々は笑えるだろうか。
トランプはメキシコ人を追い出し、国境に壁を作ろうとしている。移民を追い出すためイギリスは欧州から離脱した。そしてテロはいつもどこかの街角で起こる。
ロンドンでは投票が終わったあとですら、「馬鹿な労働者が」「先の短い高齢者が」間違った選択をした、という声があふれた。

我々日本人も、決してそこから遠い世界に住んでいるわけではない。いつだって選挙で一番重要なのは「誰が嫌いか」だ。あいつに勝たせたくない、あいつに一泡吹かせたい。
我々の周りには、党派やイデオロギーにかかわらず「◯◯党に勝たせればいかなることがおこるか」という言説が、溢れている。

「だから◯◯党に投票するような奴らは馬鹿なのだ」と。

勝ち負けという二項対立に陥ることは簡単で、その穴は深い。

ナチスに対峙した政治家達から学べること

ナチスが権力を掌握し、全ての法律をヒトラーの意思で自由にできる「全権委任法」を成立させた、まさにその時。

唯一壇上に立って反対したのが、ドイツ社会民主党の党首、オットー・ヴェルスだった。

この歴史的な瞬間に、我がドイツ社会民主党は人道、正義、自由、そして社会主義の原理に誓う。全権委任法が諸君らにこの永遠不滅の思想を破壊する力を与えることはないと…ドイツ社会民主党もまた、この迫害から新たな力を得るだろう

ヒトラーは勢力を拡大し、やがて欧州全土を支配するに至り、その帝国は効率的にユダヤ人を殺処分するベルトコンベアと化す。
しかし、事実は、ヴェルスの言った通りだった。ヒトラーは破滅した。ベルリンを灰燼に帰した彼は全てに絶望し、地下で自らの頭を撃ちぬいた。

人道、正義、自由は死ななかった。社会民主党は荒波を乗り越え、未だにその命脈を保っている。

我々が選ぶべきこと

我々が選ぶのは、対立や勝ち負けではなく、普遍の原理であるべきだ。

それは誰もが等しく生きる権利であり、愛する者が結ばれる権利であり、子供が飢えることなく育てられる権利であり、性別や人種に関係なく自分がやりたい仕事を選ぶ権利だ。
普遍の原理は、一国家や一民族だけではなく、東京の真ん中で、香港の高層ビルの上で、イラクの食堂で、モンゴルの草原で等しく適用されるべきものでなくてはいけない。

我々は主権者として一票を投じるとき、自らの敵の泣き顔ではなく、その政治家が普遍の原理を擁護してくれるかどうか、それを想像しなくてはいけない、そう僕は思う。
ヒトラーは言った。「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい、大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」

我々が考えることをやめ、普遍の原理をシニカルに見るようになり、自らの敵の敗北を願うようになった時、「彼」はいつだって我々の中に蘇るのだろう。
そしてそれは、イデオロギーや党派にかかわらず、我々の中の怠惰さ、無責任さが引き起こすものだと僕は思う。

「かぐや姫の物語」は「風の谷のナウシカ」の続編である。

「かぐや姫の物語」は、天才・高畑勲の大傑作であると同時に、「風の谷のナウシカ」の続編である。

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Amazon.co.jp | かぐや姫の物語 [Blu-ray] DVD・ブルーレイ – 高畑勲

Amazon レビュー抜粋

高畑勲は過小評価されすぎである。時代が彼に追いついていない。

わたしにとってこの映画は凶器でありバイブルであり高畑さんからの愛の贈り物だと感じている。ふとした時に見返したくなる作品に出会えてホントに感謝だ。

私たちはいつかきっと天の住人になるのでしょうか。この映画の絵と声と音楽には人間の本質、魂の叫びが込められています。恐るべき作品です。

こう言うと、何を言っているんだ、という声も上がるだろう。

それでも、声を大にしていいたい。かぐや姫の物語こそがナウシカの正当なる続編だということだ。

かぐや姫・虫愛づる姫

「かぐや姫の物語」を見られた方は、少なからず違和感を感じたかと思う。
「竹取物語」に出てくる姫と「かぐや姫の物語」に出てくる姫は、だいぶ印象が違う。

かぐや姫は、「よくもない顔立ちで、相手の深い心も知らず軽々しく結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないと不安です。天下の恐れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚などできません」と言う。

五人の中に、私が見たいと思うものをお見せくださったならばその御方に、御志がすぐれていると思い、妻としてお仕えいたしましょう、とお伝えください」と言う。翁は「よろしい」と承知した。

竹取物語〜現代語訳より)
「竹取」のかぐや姫は、愛が消えてしまうことへの「恐れ」「不安」を表に出しているけど、結婚そのものや宮廷生活そのものを拒否する言葉はない。
帝とも和歌でこころを交わしていて、間違いなく二人の間には通じ合うものがありました。(アニメ版の帝がいやらしすぎたのでは、という説は置いておくとして)

野山を愛し、故郷から宮廷に連れて来られた…というキャラクターは、高畑勲が作り上げた「かぐや姫であってかぐや姫ではない」主人公にすぎない。
では、「かぐや姫の物語」に出てくるあの魅力的な姫は、いったい誰がモデルになっているのだろうか。その鍵は、原作版「風の谷のナウシカ」の中の宮﨑駿へのインタビューの中にある。

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ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを思い出した。たしか、今昔物語にあったのではないかと思う、虫愛ずる姫君と呼ばれたその少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、芋虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変わり者あつかいにされるのである。(「風の谷のナウシカ」アニメージュ版より)

風の谷のナウシカで宮﨑駿監督が「ナウシカ」のモデルとして紹介した「姫」が、堤中納言物語で「虫愛ずる姫」と呼ばれた姫だ。そして、この「虫愛ずる姫」こそはこの「かぐや姫の物語」の主人公であるかぐや姫のモデルではないだろうか。

虫愛ずる姫は、日本の古典の中でもひときわ活き活きと描写された、とても魅力的なキャラクターだ。
お歯黒を塗らず、自然を愛し、物事の本質にひときわ敏感な女性だ。

この姫君は「人々が蝶や花を愛でる様は、ほんの一時的なことで良くないわ。人は誠実で本質を突き詰めようとする心映えこそが美しいのよ」と言っていろいろなたくさんの恐ろしそうな虫を採り集め、「これらが成長する様を見届けるわ」と籠箱に入れて飼っていました。

「心苦しいと思うことなんてないわ。どんなことでも根本を見極めて、その末を見届けてこそ意味があるのよ。世間のことを気にするだなんて、子供っぽいと思うわ。私は烏毛虫が蝶になる過程に興味があるの」と、その様子を取り出して見せるのでした。

虫愛ずる姫君(現代語訳)より)

「虫愛ずる姫君」では、当時お歯黒や眉毛を抜くことが常識だった中、世間の常識に従わず、虫達や生命を愛し、生きることの喜びを愛した姫君が、イキイキと描かれています。それは、下のようなセリフにも現れている。

人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ

(人々の、花や蝶を愛する心は無意味で虚しいでしょう。真の本質を探ることこそ、本当に価値があるのです)

「かぐや姫の物語」とは、「竹取物語」のプロットの中で生きる「虫愛ずる姫」を描いた作品だと言えるのではないだろうか。

ナウシカアと虫愛ずる姫君

同じモチーフにも関わらず、かぐや姫とナウシカの人生は対極にある。
ナウシカの物語は、「異世界への冒険」が主軸になっており、彼女には風の谷という帰る場所がある。
ナウシカは破壊と死の中から生を見出したが、約束された正常な世界をその手で引きちぎり、汚染された腐海で森の人と暮らすことを選んだ。

かぐや姫はあくまで異邦人であり、罪を洗い流すためにやってきた現世(下界)が、彼女にとっての異世界だ。
彼女は汚染された下界で愛する人を見つけ、翁と媼の精一杯の愛を受け、虫や、木々や、獣のはちきれんばかりの美しさを知り、そして、それを全て忘れて月へと帰った。
宮﨑駿監督は、虫愛ずる姫についてこう語っている。

社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆けまわり、草や木や、流れる雲に心を動かしたその姫君は、その後どのように生きたのだろうか・・・。今日なら、彼女を理解し愛する者も存在し得るが、習慣とタブーに充満した平安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったのだろう・・・。

これは、まさに「かぐや姫の物語」そのものではないだろうか?

残念なことに、ナウシカとはちがって、虫愛ずる姫君には出会うべきオデュッ セウスも歌うべき歌も、束縛を逃れて流浪らうあても持っていなかった。しかし彼女に、もし偉大な航海者との出会いがあったなら、彼女は必ず不吉な血まみれの男の中に、光かがやくなにかを見い出したはずである。

そう、「かぐや姫の物語」こそ、描かれなかったもう一人のナウシカなのだ。
風の谷に風が吹かず、メーヴェを持たず、しきたりと慣習に縛られたナウシカの姿こそがここにある。
我々はナウシカを知るからこそ、我々は無意識にかぐや姫が成し得たはずの沢山の冒険譚を想像し、それらが永遠に訪れないことを考え、涙する。

あふれんばかりの魅力を持った「虫愛ずる姫」を、「竹取物語」という悲劇に押しこめて。
駆け回れなかった野山を、収穫されなかった茸を、歌われなかった歌を、見られなかった笑顔を、僕らの胸の内にぽっかり空虚として残していく。

そう、高畑勲は天才なのだ。

「秒速5センチメートル」から考える、物語の特異性と神話性とは?

改めて小説版の「秒速5センチメートル」を読むと、その物語の特異性に驚かされた。

「君の名は」で新海誠は世界的な有名作家になったが、新海誠さんの「秒速5センチメートル」を中心に、彼がいかに特異な世界を描いているかを解説したい。

物語を語るという性質上、様々な方面で大きくネタバレしている。特に「時をかける少女」と「秒速5センチメートル」については物語の核心を語る内容となっているので、未視聴の方は出来るだけ視聴をされてからこのエントリを読まれることをおすすめしたい。

主人公たちから見る物語性の違い

千と千尋「千尋」

古典的に、物語の構造は大きく2つに分けられる。一つ目は、「旅に行って帰ってくる」物語だ。

  • 主人公が何かを喪失する
  • その喪失したものを取り戻しに主人公が異世界(あるいは非日常)へ向かう
  • その過程で主人公は成長し、帰還する
  • めでたしめでたし

というのが、「旅に行って帰ってくる」物語のおおまかなあらすじだ。

ドラクエではお姫様がさらわれ、マリオではピーチ姫が性懲りもなく捕まるのはこの構造が最もベーシックだからだ。神話で言うと、イザナギノミコトがイザナミノミコトを取り戻しに黄泉の国へと向かうのもこの構造だ。

ハリウッドであろうがゲームであろうが、世の中にある多くの物語は、この構造に則って「喪失→回復」の過程を描いている。

日常に回帰するときに異世界において獲得したものはほとんどのものを失ってしまうものの、かつて持っていたものは取り戻し、その過程で主人公は成長している。

宮崎駿さんの映画「千と千尋の神隠し」はこの構造に則った、典型的な「異世界での成長」物語だ。

彼女は様々な経験をし、結果として両親を取りもどし人間的成長を遂げる。しかし、日常に回帰する代償としてハクとは別れ、ほとんどの記憶は失われる。

宮崎駿さんの作品は(後述する「崖の上のポニョ」や「ハウルの動く城」など一部を除いて)ほとんどが異世界への旅とその帰還を描いている。原点とも言える原作版ナウシカでも、最後はシュワの墓所から風の谷へと帰還するのはご存知のとおりだ。

これは、宮崎さんが「指輪物語」や「ゲド戦記」などの古典的ファンタジーに大きく影響を受けているからだろう。

時をかける少女「真琴」

もう一つは、「異邦人が来て戻っていく」物語だ。古典で言うところの竹取物語だ。

異邦人がやってきて、日常がかわり、しかしあるとき異邦人は帰ってしまうことでまた平凡な日常が戻り、でも主人公はその過程で成長している…というのがストーリーの主眼だ。
ETも帰るし、ドラえもんも未来に帰るし(戻ってきたけど)、異世界からの素敵な恋人はたいてい消え、非恋物語に終わるのが常だ。

さて、細田守さんによる「時をかける少女」は典型的な「異邦人が来て戻っていく」物語だということがわかる。

「来て戻っていく」も「行って帰ってくる」も、非日常からの日常回帰がストーリーの主眼だ。
真琴にとってはタイムリープをしたり、千昭とキャッチボールをしたり告白されたりする時間こそが「非日常」だった。

「来て戻っていく」話だからこそ、真琴は日常を失うことなくその後の人生を生きられたのだ。

真琴はその経験を通し、喪失を知り、そして未来へと向かう第一歩を踏み出す。「時をかける少女」の本質は、真琴の成長にあるのだ。

余談だが、両作品とも完全なる日常回帰ではなく、異世界からの帰還において変わった部分がフォーカスされる。千と千尋でいうところの髪留め、時かけでいうと絵画の修復を始めるなど。これは成長のメタファーだ。

秒速5センチメートル「明里」

ここまで二つの大きなフレームをお伝えしたが、千と千尋も時かけも「切ない」お話ではある。

しかし、「秒速5センチメートル」は、どちらも根本的にこの2つのお話とは違う。なぜなら、秒速は「異世界に行ったまま帰ってこない」お話だからだ。

秒速の明里は最初から貴樹の隣にいる。それがある日から転校してしまい、その後…というのが秒速のメインストーリーだが、普通の作品であれば最終的には主人公のもとに帰ってくるはずだ。

しかし、秒速では(ご存知の通り)明里は他の人と結婚してしまいます。

これは、他のストーリーで例えるとゼルダがガノンドロフと結婚しちゃったままリンクがコキリの森で生活し続けるくらいの衝撃だ。

このような物語構成は一歩間違えると単なるバッドエンドになりかねない。「行ったまま帰ってこない」物語はほとんど死に直結しているメタファーだからだ。

崖の上のポニョ「宗介」

例えば、異世界に向かう物語である「千と千尋の神隠し」や「ナウシカ」では高い評価を得ている宮崎駿さんも、行ったまま帰ってこない物語の典型である「崖の上のポニョ」においては評価が芳しくない。

(ポニョはそのものズバリ世界の崩壊を描いているので、死に直結するメタファーを選択するのは当然だし、死を描く作品がなかなか一般受けしないのもこれまた当然かと思う)

ポニョを見てもわかるように、「行ったまま帰ってこない」というストーリーを選択した場合、観客は死の臭いをそこに嗅ぎ取り、その臭いにもやもやしたままカタルシスを全く得られない作品になってしまう危険性がある。

これを回避するためには、世界は主人公の犠牲によって救われる」という、主人公を世界からみた異邦人としてメタに捉える手法か、いわゆるセカイ系(エヴァ・ガンダムZ)のように主人公の心のなかの救済を描く手法があるが、秒速は普通の恋愛物語なので、そんな手段は使えない。

どうすればいいのだろうか?

この危険を回避するために新海誠さんが取った手法が、「二人の主人公」だ。

主人公としての秒速5センチメートル「明里」

秒速の主人公は貴樹ではあるが、見方を変えれば明里も主人公だ。

第一章の「桜花抄」のラストで明里は自分の手にした手紙を渡そうとするものの、それをせずに「貴樹くんは、きっとこの先は大丈夫だと思う!絶対!」と叫ぶ。

対して、貴樹は「明里も元気で!手紙書くよ!電話も!」と答えている。

ここにおいて、二人の明確な対比が描かれている。明里が伝えているのは「貴樹くんは私がいなくても大丈夫」あるいは「私は貴樹くんがいなくても生きられる」というメッセージだ。

この瞬間、明里は貴樹を失い、貴樹がいない世界を生きることを選択している。だから、明里は手紙を渡さなかったのだ。

「手紙から想像する明里は、何故かいつも一人だった」というような描写があるが、明里にとって貴樹はほとんど唯一の友達だった。

その彼女が(小説版の中で)書いた手紙の中で、「私はこれからは、ひとりでもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません」と書き、貴樹くんのことが好きだった、と述べているのだ。

ここにおいて、明里の中での貴樹は失われた。

対する貴樹のメッセージ「手紙書くよ!電話も!」は「一緒にいられた日常を続けよう」という意味だ。明里は喪失した自分自身であり、魂の片割れであり、取り戻すべき存在なのだ。

明里は貴樹の来訪と喪失により成長し、転校した土地、貴樹のいない世界を「日常」にし、そしてその地から旅立って結婚する。

明里から見た時には立派に「異邦人が来て、喪失により成長する」物語が成立しており、秒速5センチメートルが明里の成長物語として成立しているからこそ、物語が単なるバッドエンドで終わらないのだ。

秒速5センチメートル「貴樹」

さて、貴樹にとっては一見救いようのないのないストーリーだが、明里に遅れて十数年、貴樹が救われる瞬間が訪れる。

それが、小田急線の踏切において描かれるラストシーンだ。

貴樹は明里の姿を踏切で見かけて振り返り、電車が通り過ぎたあとに彼女の姿はなかったものの、少し微笑んで歩き始める。これは、正式に明里を「失うことが出来た」瞬間だ。

秒速5センチメートルは貴樹が明里を喪失し続ける過程を描いている。

だからこそ、貴樹が明里を正式に失うことによって、明里が中学生時代に貴樹に「貴樹くんは大丈夫!」と言ったのと同じように、明里を非日常としてみなすことが出来るようになったのだ。

10数年来の二人のすれ違いがようやく解消されるのがラストだ。だからこそ、我々は長かった喪失の過程が終わったことに安堵し、心地良い喪失に身を委ねることが出来るのだ。

こうしてラストの数秒で「秒速5センチメートル」は貴樹から見た「来て戻る」成長譚として成立することが出来た。

天才・新海誠

最後の最後、この瞬間にのみ成立しうるタイミングで喪失を描き、エンディングで深い余韻を残す。
これが僕が新海誠さんを天才だと思う理由だ。

そんな綱渡りと博打の上に成立した「秒速5センチメートル」という日本が誇る傑作。
もしこのエントリで何かを感じて頂ければぜひもう一度、秒速を見ていただきたい。

秒速5センチメートル

4.1 | 小学校の卒業と同時に離ればなれになった遠野貴樹と篠原明里。二人だけの間に存在していた特別な想いをよそに、時だけが過ぎていった。 そんなある日、大雪の降るなか、ついに貴樹は明里に会いに行く……。 …

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