「失敗の本質」で学ぶ、日本に根づく「無茶ぶり」という思想とは?

「無茶ぶり」という言葉は日本の特徴的な言葉であり、日本的組織の特性を一言で言い表せる言葉だ。
この言葉を「unreasonable request」など無理に英語に訳したとしても、その裏にあるニュアンスは全く伝わらない。

この記事では、名著「失敗の本質」を紹介しつつ、日本の組織構造の中にある「無茶振り」信仰を考える。

失敗の本質

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Amazon レビューより抜粋

組織について深く熟考するための栄養として日本の歴史に学びたいのであれば、本書のまとめかたは有効なのだと思う。

太平洋戦争でのノモンハン、ミッドウェー、カダルカナル、インパール、レイテ、沖縄戦という6つのケースとして取り上げ、組織論の観点から「失敗の本質」が何だったのかをえぐっています。

太平洋戦争のことについて、その当時の軍組織の状況、戦況が詳しく記述されており、
どのような状況で、どのような方針で戦争の舵が切られてきたのかが判ります。

失敗の本質

「旧日本軍がなぜ敗れたのか?」を組織論的に研究した名著「失敗の本質」を読みながら、ベンチャー・大企業問わず日本的組織の根底に「無茶ぶりという思想」があるのではないか、と感じた。

本作の中に「海軍はある意味では絶えず自己超越を強いた組織であった」という一文がある。

海軍はある意味では絶えず自己超越を強いた組織であった。それは、主体的と言うよりはそうせざるを得ないように追い込まれた結果であった。
往々にしてその自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた。そのような精神主義極限追求は、そもそも初めからできないことがわかっていたのであって、創造的破壊につながるようなものではなかった。

求められた自己超越

「自己超越」とはなにか。それは、自分のパフォーマンス以上の能力を求められ、その課題を乗り越えることで成長する事ができる、という思想だ。
自己成長するためには、能力・キャパシティ・体力以上の努力をすることが求められ、それが出来ない人間は精神的に未熟である/やる気が無いとみなされる。

こういった思想は多くの日本的組織に通底する価値観ではないだろうか。だからこそ、「無茶ぶり」という言葉は、日本企業においては、決して否定的なニュアンスばかりではない。
振る側は「無茶ぶりしているということは君の成長を助けているんだよ、それだけ信頼しているんだよ」という言外の意図を含んで「無茶振り」という言葉を使う。
振られた側も「それだけ出来ると期待されている、成長のチャンスである」と言外の期待を汲み取って行動する。そこには一種のグルイズムが表出する。

ゼロ戦と日本

零戦の優秀さは誰もが認めるところだ。戦後に至っても、戦闘機としての大きな技術革新として高く評価されている。

(中略)

攻撃能力を限度ギリギリまで高めた名機は、ベテラン搭乗員の練度の高い操縦に寄って始めて威力を発揮した。

(一方)米軍は、防御に強い、操縦の楽なヘルキャットを大量生産し、大量の新人搭乗員をヒトという資源として活用した。

自己超越的組織において、人は思いもかけないパフォーマンスを見せる。

「人は努力することで、自分が考えているよりも多くのことを実現できる」というのは一面において紛れもない真実だ。そして、そのような経験は人にとって爽快なものでもある。
就活などでも「成長できる組織」を希望する学生が多いのも、そういった理由ではないだろうか。
しかし、自己超越を強いられる組織と、精神主義的組織は紙一重だ。精神主義的組織では、次第に現実と乖離した夢物語が語られるようになる。

物的戦力の優性な敵に対して勝利をおさめるためには、日本的精神のますますの拡充が必要である

日本軍がソ連に大敗したノモンハン事件の後、今後の課題として述べられたのが上記の一文だ。
今見れば噴飯物でしかない。このような「日本的精神」を信仰した結果、インパール作戦やガダルカナルの戦いなど、補給を無視した無謀極まりない作戦が生まれたのだ。

兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる… 

牟田口廉也

全滅インパール3

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労働研究の第一人者である熊沢誠氏が提唱した「強制された自発性」という概念がある。
例えば、過剰なノルマ、長時間労働、飲み会などの出席を「自発的に成長の機会と捉え、参加する」ことを求められること、これは「強制された自発性」にあたる。(これも英語にすると意味がわからないけど、日本人ならイメージができるのではないかと)

熊沢氏は、過労死についての記事で「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」と語っている。

熊沢は過労死問題を「強制された自発性による悲劇」ととらえる。

例えば、少しでも残業代を得るために深夜まで働くことは「自発的」とは限らない。基本給だけで生活できないのなら、そのような働き方は「強制された」とも受け取れるからだ。

「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」という熊沢の観点からみれば、祐一の死もまた、強制された自発性による悲劇といえるかもしれない。

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「失敗の本質」を読むと、「これは可能であるから実行する」「これは不可能であるから実行しない」という明確な線引を日本軍が全く行っていなかったことが分かる。
時として、日本的組織では「不可能である」と語ることは「やりたくない」という意味である、と捉えられる。

結果として可能であることも不可能なことも、建前としては「自発的」に行われ、それらは「成長」「挑戦」「修行」という美しい文言で彩られる。自発的に行ったことなので、失敗しても組織的に責任は取られない。

そして、努力と根性が極限まで美化された時、全ての組織的問題が現場のハードワークによって解決され、抜本的解決が先送りされる、ということになる。

最後に

歴史から我々が行うべきは、「無茶ぶり的精神」を持った旧日本軍という組織が現実に起き得ない結果を夢想し、それを誰も止めることができないまま悲惨な結果を招いた、という歴史的帰結を知ることと、そのような構造が今なお日本企業に存在しているというリアリティをしっかり認識することではないだろうか。

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