「めでたし、めでたし」という言葉が昔から嫌いだった。
なにがめでたいものか、と思うけど、どうやらその一言がなければ平穏無事に終われないようで、昔話はきまってめでたしめでたし、で終わる。

しかし、王子様がお姫様を助けだした後も、王子様が脱いだ靴下を床に投げっぱなしにして怒られたり、庭仕事をどちらがやるかで揉めたり、王子様が隣の国の王女様に馬車を贈っているのがバレたり、まぁそんな感じの苦労がたくさんあるはずだ。「めでたし、めでたし」なんてあるものか、と毒づくのだけども、やはり物語はそこで終わらざるを得ないのである。

僕らはどこかで、ハッピーエンドが存在すると信じている。言い換えると「後戻りしない幸せの分水嶺」を信じている。
憧れのあの人と付き合えれば、1億円稼げれば、社長に慣れれば、結婚すれば、子供が持てれば、自由に生きられたら、夢がかなったら。
あるポイントを越えると「めでたし、めでたし」となって、その先は考える必要がなく幸せである、とどこかで信じている。
だから、ハッピーエンドを求め、「これはまだ自分の人生じゃない」と呟きながらカレンダーを塗りつぶしていく。

だけど、本当にそんな分水嶺は存在しているのだろうか。
ハワード・ヒューズは、使い切れない金と、ハリウッド中の女優を手に入れた後、強迫神経症にかかり孤独に死んだ。ウィンストン・チャーチルは「私は非常に多くのことをやってきたが、結局何も達成することはできなかった」と語り、失意の内に死んだ。
幸せの絶頂のような結婚の後の悲惨な離婚、幸せいっぱいの家族の事故、成功と転落、世の中は「めでたさない」ことばかりだ。

人生最高の1日の次の日が人生最悪の日である、ということだってあり得る。
いつだって、僕らは生きている。生きていれば、蹴飛ばされることもあれば祝福されることもある。
晴れの日があれば雨の日もある。雨の後には虹もかかる。
どんなに成功したって、その先にバラ色の人生が待っている、なんていうことは、どうやら無いようだ。

息を呑むほど美しい場所にいても、そこからまた立ち上がり、歩きださなくてはいけない。
最後に少しだけ、自分の話をしようと思う。
16歳の頃、当時通っていた通信制高校をやめてイギリスに行った。
中卒で、勉強なんてろくにできず、Be動詞すら知らず、英語なんて話せるわけがなかった。でも、自由だった。

会社をやめて自分の足で歩き始めた今、あの時と同じ自由さを感じている。不安で、先が見えなくて、そして、生きている感じがする。
ハッピーエンドが無いとしても、歩き続ければ、そこには新しい景色が見える。
人生は旅である、と誰かがいった。だとすれば、旅に重要なのはどこにたどり着くかではない。旅の途中に感じる風、匂い、一瞬の感情のゆらぎこそが旅の価値だと思う。
成功も失敗もそこにはない。
ハッピーエンドなんてくそくらえ。物語は続く。僕らがその一歩を踏み出す限り。

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