栄光なきゴールテープ

ゴールテープを切るときに、それが栄光に満ちたものであるとは限らない。優勝者はたった一人しかいない。ほとんどの人はだれにも注目されることなくレースを終える。もしすべてのゴールテープが栄光に満ちたものであれば、世の中はどんなに素晴らしいものであろうか。

エンディングでは正義は勝利し、夢は叶い、努力は報われる。フルオーケストラの感動的なエンディングテーマのもとに、恋人は抱き合って美しい空のもとにゆっくりと手を取り歩き去っていく…。そんな理想的な世界では、ロッキーは1で終わり、モハメド・アリはフォアマンを倒したところで息絶え、ロナウジーニョの記憶は永遠にバルセロナのファンタジスタのままで記憶されているだろう。

しかし、彼らのゴールテープは輝かしい成功の少し先にあった。
どんな栄光も永遠にファンファーレを鳴らしてくれるわけではない。いつかホルンは鳴り止み、太鼓は止る。上り坂の後には下ることもある。頂上に達すれば降りなくてはいけない。そしてまた、歩き出さなくてはいけないのだ。

栄光は永遠ではないというのは、失敗もまた永遠でないということだ。我々はたいていの失敗を忘れてしまうか、「あの頃は良かった」と美化してしまう。どんなに顔から火が出るような恥ずかしい思いをしても、決してそれは永遠に続くわけではない。
だからこそ、人類は我々に忘却と都合の良さ、そして面の皮が厚さという大変素晴らしい性質を与えたのだろう。

世界に下り坂と上り坂が同じ数あるように、忘れたい記憶と忘れたくない思い出は半々くらいで存在している、と聞いたことがある。
とすると、人間の脳というのはずいぶん過去を都合よく書き換えてくれるものだ、と関心せざるを得ない。

客観的に、自分が過去に勝ち取ったささやかな成功と、自分が過去に犯してきた数々の(思い出したくない)失敗を比較すると、良い思い出はだいぶ美化され、ひどい失敗は忘却の彼方へ消え去っている…と認めざるをえない。
おそらく、失敗の思い出を後生大事に持っている誠実な人類は、この過酷な生存競争の中で淘汰されてしまったに違いない。何時の世も、面の皮が厚い人間が生き残るのである。

僕は沢山の思い出したくもないような失敗をしてきた。しかし、同じように僕は失敗から何かしらのことを学んでいる。少ないけれど、とても大切なことだ。それは、「失敗してもやり直すことが出来る」ということだ。
そして、経験から言うなら、成功した時の体験よりもずっとずっと、失敗した体験の方が自分の背中を押してくれている。

伝えられなかった言葉が。届かなかった思いが。報われなかった努力が。そしてかなわなかった夢と目指して届かなかった明日が、僕に「こんなところで止まっている場合じゃないだろ」と語りかけ、背中を押してくれる。
いつかきっと、あの日切れなかったゴールテープを切るための、最後の一歩を踏み出させてくれる。

そう、大事なのはいつだって、次に踏み出す一歩なのだから。

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