銃で打たれるその日まで。「HINOMARU」と「This is America」から感じる文化的な無垢さの話

This is America の衝撃

チャイルディッシュ・ガンビーノ(ドナルド・グローバー)の「This is America」が、世界中で反響を受けている。

曲はアコースティック・ギターの爽やかな音色と陽気なコーラスから始まる。

身体をくねらせながら登場したチャイルディッシュ・ガンビーノは、銃を懐から取り出し、先ほどまでギターを奏でていた男性(顔には袋が被せられている)を撃ち抜く。

曲調はダークなヒップホップに一転し、彼は「これがアメリカだ。油断するな」とラップする。続いて登場したゴスペル隊も、手渡されたマシンガンで撃ち殺す。

舞台は広い倉庫。チャイルディッシュ・ガンビーノを中心に制服を着た黒人のダンサーたちが笑顔で踊る一方、画面の後方では暴動のような光景が繰り広げられる。何者かに追われ必死の形相で逃げるチャイルディッシュ・ガンビーノの姿でビデオは終わる。

世界に強烈な衝撃を与えた「This Is America」とは何だったのか

ところで、先日、RADWIMPSの野田洋次郎氏が「HINOMARU」という曲を発表した。(僕は水嶋ヒロの「KAGEROU」を思い出したけど、Twitterを見る限りみんな忘れていた)

RADWIMPS衝撃の愛国ソング「HINOMARU」を徹底解剖する(辻田 真佐憲)

「さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に」などと歌う、RADWIMPSの新曲「HINOMARU」(野田洋次郎作詞・作曲)が「軍歌っぽい」として話題になっている。軍歌云々はあとで触れるとして、この歌はなにより明確に愛国歌(愛国ソング)である。

個人的にはRADWIMPSは好きで、「君の髪や瞳だけで胸が痛い」とか言っていたバンドがいきなり「僕らの燃ゆる御霊」なんて言い出したので、三回デートした女性からイルカの絵を売りつけられそうになった気分だ。

それはともかくとして、この二つを比較して感じたのは、日米の文化的引用(という言葉があるかは知らない)の差だ。
「This is America」には多くの文化的引用がなされている。ダンスはアフリカのグワラダンスなど、黒人文化の様々な場所から引用されているし、

「This Is America」にアフリカの流儀を持ち込んだ振付師:シェリー・シルヴァー

すでに2億回以上再生されている、話題のPV「This Is America」。その振付を担当したシェリー・シルヴァーはどのようにしてガンビーノに出会い、このビデオで何を体現しようとしたのか?

黒人への乱射事件や銃をうやうやしく扱うアメリカ銃社会、携帯を持っていただけで射殺された黒人男性の事件が歌詞でも(間接的に)言及されている。
MVで登場する車は古き良きアメリカの車だし、ゴスペル隊を虐殺する銃は、ベトナム戦争などでソビエト軍が使ったAK-47だ。ガンビーノが身につけているのは金のネックレスである。
そもそも、ラップミュージックやヒップホップ自体が「ブラック・ミュージック」であり、というよりジャズやブルーズの時代より、アメリカの音楽シーンは常に黒人文化が先導してきたわけだ。
そのような文化的ルーツに対する十分なリサーチと敬意、そして社会的なメッセージがこの曲には込められている。

それに対して、「HINOMARU」は不思議な歌だ。歌詞を見れば、明らかにそのルーツは愛国歌や軍歌など、戦前戦中・昭和初期の文化からインスパイアされている。
そもそも「高鳴る血潮」とか「燃ゆる御霊」とかいう言葉はそのような文化圏で用いられていた言葉であり、普通一般の日本の生活で出てくる言葉ではない。

しかし、野田氏本人は

HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。ありません。

というふうに述べている。

一般的に、文化を引用する場合、そのルーツとは不可分だ。ブラック・ミュージックを引用するなら、その裏にある黒人の苦難の歴史、奴隷としての長い歴史を知ることが必要になる。
例えば、「星条旗よ永遠なれ」を曲の中にサンプリングすれば、それは肯定的であれ否定的であれ、アメリカという国の歴史を引用することになるわけで、当然「単にメロディがキレイだったから」という理由で引用されることはないだろう。

とすると、戦前戦中の文化を引用した、しかも大日本帝国の文化圏から強い影響を受けた愛国歌をインスパイアしたのであれば、必然的にそれは大日本帝国という国家の位置づけと、分かちがたく絡み合ってくる。

先にも述べたとおり、欧米の文化圏の中では、文化的なルーツがどこにあるか、ということは極めて重要なことだ。一方日本では、むしろそのようなルーツに対しては無垢であることが求められているのではないか。
文化的イノセンス、というのがこの曲から感じる印象だ。

つまり、可能な限り何も知らない、何がルーツになっているかも知らないことが求められ、「難しいことはよくわからないけど、自分の国を好きって言いたいよね」というような態度こそが、日本のミュージシャンには求められているのかもしれない。

例えば、それはミュージシャンが政治的発言をした時の強い反発からも推察される。

「フジロックに政治を持ち込むな」に、アジカンの後藤正文さんら反論

毎夏恒例となった野外フェス「 FUJI ROCK FESTIVAL」(フジロック・フェスティバル’16)に、学生団体「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」の中心メンバー奥田愛基さんやジャーナリストの津田大介さんらが出演すると 発表され 、ネット上には「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽の政治利用」などと批判の声が上がった。 …

野田氏は、

僕はだからこそ純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました

とも述べている。

しかし、「気高きこの御国」というような語彙には明確な文化的ルーツがある。そこには良い意味であれ、悪い意味であれ、ある時代の日本や、その日本を構成していた国家体制が源流にあり、それを選択するということには、明らかに思想的な意味が存在する、と(欧米なら)見られるはずだ。

アメリカに「無思想のゴスペル歌手」は存在しないだろう。ゴスペルを歌うなら、そこにはキリスト教と信仰とアメリカの奴隷制度と、黒人の歴史が複雑に絡み合う。しかし、日本ではゴスペルを単にメロディがキレイな音楽として歌っても問題ない。むしろ、推奨されるべき行為として見られるだろう。
「白人とか黒人とか関係なく、私は単に美しい音楽が好きなのです」と言ったら拍手喝采かもしれない。

ブラック・アンド・ホワイト

Dear White People | Netflix Official Site

Rivalries, romance, identity crises: College was already full of drama. Now this elite school is in for a real wake-up call. Watch trailers & learn more.


Netflix に「Dear White People(親愛なる白人様)」という連続ドラマがある。ウィンチェスター大学という架空の大学舞台に、黒人生徒の生活を描いたものだ。

主人公のサマンサが放送しているラジオ番組は、いつも「Dear white people(親愛なる白人の皆さん)」という語りで始まる。彼女はアメリカに残る人種差別を痛烈に批判するが、黒人と白人のハーフで、白人と付き合っている。
サマンサの彼氏であるゲイブは白人でありながら黒人の多い大学(HBCU/Historically Black Colleges and Universities/歴史的黒人大学)に入学していて、なんとか黒人たちのコミュニティーに馴染もうとしている。

作中の黒人学生たちは、しばしば頻繁に「白人はこれだから」というふうな言い方をするが、ゲイブは言い返さない。黒人が黒人の血を誇ることはできても、白人の白人の血を誇ることはできないし、「黒人と結婚したい」と女性が言うのはOKでも、「白人と結婚したい」とは誰も言わないし、言えない。
こうした扱いを一見すると、白人はむしろ不公平な扱いを受けているんじゃないか?いわゆる逆差別なのではないか?というような意見が出てもおかしくない(この辺、戸惑うゲイブの反応が凄くリアル)

ところが、作中(少しネタバレになってしまうけれども)あるパーティーが開かれ、そこで白人学生と黒人学生の小競り合いが起こる。そこに警備員がやってきて、なんと、警備員は容赦なく黒人の学生の方に銃を突きつけ、学生証を見せるように迫る。
彼は最終的には学生証を見せて事なきを得るのだが、心に非常に大きなショックを受けることになる。

つまりはそれが現実なのだ。アファーマティブ・アクションがあり、様々な形で白人学生は我慢をし、黒人学生は自由を謳歌にしてるように見えたとしても、一皮むけば警官が黒人を容赦なく殺害するアメリカの姿がそこにある。
ヘイトフル・エイトでサミュエル・L・ジャクソンが言っていたように、「黒人が安全なのは白人が丸腰のときだけ」なのだ。ちなみに、このエピソードの脚本を書いたのはムーンライトでアカデミーをとったバリー・ジェンキンスだ。

つまり、黒人のアイデンティティは、日々銃を突きつけられ、射殺される危険と隣り合わせという状況の中で生まれているもので、それは彼らにとって、生きるか死ぬかの問題だ。敬意を払われなければすぐにしんでしまうからだ。
彼らは、もともと奴隷としてアメリカにやってきて、今もそのような危険にさらされている。文化が尊重されない
だからこそ、文化的盗用やブラックフェイスなどの問題に対しても、非常に敏感に反発する。

ブルーノ・マーズは「文化の盗用」? 黒人音楽を演る「カラオケ歌手」? ~アメリカで大炎上 – wezzy|ウェジー

白人に盗まれ続けた黒人音楽  「黒人ではないブルーノが黒人音楽をやるのは文化の盗用」と怒りを爆発させたセレンだが、これに…

少し長くなったけれども、私はやはり、何かしら文化的ルーツのあるものを引用する時、その文化的ルーツに対する評価を曖昧にしたままに引用するのは、クリエイターとしてあまり正しいことではないのではないか、と感じている。
「HINOMARU」が愛国歌を引用して、燃える御霊、というような言葉を使ってもそれ自体は別に良いと思うのだけど、「それは軍歌とは何も関係ないし、戦前戦中の文化とも何も関係ない」というような主張は通らないのではないだろうか。

【映画-05】「グレイテスト・ショーマン」の時代

監督

マイケル・グレイシー

キャスト

  • ヒュー・ジャックマン(レ・ミゼラブル)
  • ミシェル・ウィリアムズ(マンチェスター・バイ・ザ・シー)
  • ザック・エフロン(ハイスクール・ミュージカル)

あらすじ

小さいころから貧しくも夢想家のバーナムは、良家の令嬢チャリティと結婚。ニューヨークでつましい暮らしを始めて娘たちも生まれるが、バーナムは仕事が長続きせず、貿易会社に就職しても、会社の貿易船が沈没してしまい倒産、社員全員が解雇される。しかし彼は沈没した船の登録証を持ち出し、それを担保に銀行から資金を借り、世界中のあらゆる奇妙なものを展示した「バーナム博物館」をオープンさせる。だが客足はかんばしくなかった。

そんなとき、彼は娘のある一言をきっかけにショービジネスの道へと進む。小人症の男、大男、髭の濃い女、全身刺青の男、結合双生児の兄弟など、世間から隠れるようにして生きていた様々な人を集め、いわゆるフリーク・ショーのサーカスを始めたのだ…(wikipedia より)

感想

この作品は、二つの作品を下敷きにしている。


一本目は直接的なアレで、二本目は今回のテーマでもある「フリークス(奇形)」だ。
まあ、その辺についてはいろいろと検索して頂ければ分かるとして、サーカスは、ある時代まで、見世物小屋と同義だったのは史実的に正しいようだ。

この映画、一言で言うと、映画としては0点だ。ストーリーはご都合主義の上に説明不足で酷い。しかし、エンターテインメントとしてみれば十分すぎるほど楽しい。そういう話だ。

ある時代まで、見世物小屋というものは確かに存在していて、エンターテインメントとして定着していたようだ。それは極めて悪趣味ではあるが、ともかくそういう風習がきちっとあったらしい。

ところで、フリークスは、コンプレックスをさらけ出すことではじめて満足感を得るわけだが、ここは難しいところである。見世物にされずとも生きられる時代というのは、まだ遥かに先立ったからだ。本来なら、見世物ではなく一人の人間として人生を生きられたかもしれない人たちではあるけれど、それでも彼らはいきいきと輝いてみえる。

その輝きというのは、「私ブスだから」と言ってきらびやかなスタジオで笑いを取る日本の芸人さんにも少し通じる。
夜明けはまだ先なのだ。

マーケティング関連の話 ー note を三本投稿しました

今後マーケティング関連の投稿は、note に投稿していきます。

新聞社ごとのデジタル・マーケティング戦略をグラフ化して分析する|遠藤 結万|note

こんにちは。 普段、内容で語られがちな新聞ですが、今回はマーケティング的に、どのような違いがあるかについて分析していきます。 今回、分析ツールとして、SimilarWeb を利用しました。 ・このツール、あくまで推定値を表示しているだけなので、実数ではありません。時々外してます。ご容赦ください。 …

いかにして Google は検索エンジンの覇者となったのか?|遠藤 結万|note

Google は初めての検索エンジンでしょうか……?違います。では、Google は最後の検索エンジンでしょうか……?もしかすると。 Ex-Googler(Google出身者)がこういうことを言うと、随分生意気なような気もしますが、これは偽らざる心境です。 Instagram 検索や Twitter 検索などは、検索エンジンの代替機能として使われ始めていますが、今後、Google の直接的な競合が生まれるとは(いまのところは)思えません。 いかにして Google はこれほど巨大な存在になったのでしょうか?(私のおかげでないことだけは確かですが) 理由① ー 充分でなかった競

違法サイトを巡る「曖昧な共犯関係」|遠藤 結万|note

漫画に関わる海賊サイトをめぐり、DNSブロッキングなどの議論が進んでいます。それに合わせて、それらのサイトと取引のあるアドネットワークなどが批判を浴びているようです。 「二度と掛けてくるな」 ”漫画村”広告主への取材一部始終、広告は取材後に消滅 (1/2)広告元は取材に対して「二度と掛けてくるな」。nlab.itmedia.co.jp …

月下の棋士と藤井聡太六段

 月下の棋士という将棋漫画をご存知でしょうか?
 月下の棋士は森田剛主演でドラマ化もされた人気の将棋漫画で、3月のライオンが出るまでは最も人気の将棋漫画でした。月下の棋士を一言で説明すると、「無茶苦茶な漫画」です。突っ込みどころは非常に多くあります。キャラクターを使い捨て過ぎたりとか。

 しかし、月下の棋士の七巻はあらゆる将棋漫画、いや勝負事を書いた漫画の中でも最も優れたものです。この七巻だけでも買って欲しい。この七巻は、刈田升三というキャラクターがフィーチャーされています。この刈田升三、見ていただければ分かると思いますが、ほとんど升田幸三そのまんまです。ということで、別に月下の棋士のあらすじを一ミリも知らなくても「升田幸三の漫画」として読むことが出来ます。

 逆に、この刈田と大原巌(大山康晴+中原誠)を失ったあと、月下の棋士は急激に物語としての魅力を失い、迷走していきますが。

天才、升田幸三

 升田幸三という人は、「新手一生」「将棋の寿命を1000年縮めた男」と言われた、非常に革新的な棋士でした。升田式石田流の発明や、居飛車穴熊の棋譜などを見ると、間違いなく現代将棋に最も近いセンスを持った棋士だったといえるでしょう。
 七巻でとりあげられる将棋は、将棋ファンなら誰もが知っている「升田の△3五銀」(大山康晴との名人戦、いわゆる石田流シリーズ)がモチーフになっています。これは大名局の中の大名局で、将棋の歴史の中でも大山の△8一玉や中原の▲5七銀、羽生の▲5二銀といった手と並んで、衝撃的な手と言えるでしょう。

ここで△3五銀が絶妙。以下▲同角に△3四金▲同金△3五角と進めば飛角がさばける。

 第30期名人戦第3局 先手:大山康晴 後手:升田幸三
 七巻において、虚構と現実はクロスしています。刈田の姿を借りて、「作者が考える升田幸三」の将棋が展開されます。
 この構造はあの漫画に似ています。そう、刃牙とマウント斗羽、アントニオ猪狩の戦いです。マウント斗羽とアントニオ猪狩は、虚構の存在でありながら、作者の考えた馬場・猪木を投影しています。

 さて、この七巻のテーマは何か。それは、「歴史を背負った棋士」と「天才」の戦いです。

月下の棋士七巻の魅力

 七巻では、刈田升三が主人公である氷室将介と対戦します。刈田は名人を獲得した将棋の棋譜をなぞり、名人を失陥した時に辞めたはずのピースをくゆらせながら、全盛期の力を取り戻したような将棋を見せます。

 名人を失陥したときに辞めたはずのピースをくゆらせる。かっこいい(升田幸三も愛煙家として知られていました)。見開きです。作者の気合の入り方が違います。

月下の棋士 七巻より

 氷室は簡単に言えば天才です。この月下の棋士において、氷室の成長というのはほとんど見えません。最初に登場した時から氷室は最強クラスの実力を持っていました。
 修行もせず、時々おじいちゃんと指していただけで、いきなり奨励会で全勝してあっさり勝ってしまうわけですから(藤井聡太六段でも奨励会全勝は無理でした)。

 その意味で月下の棋士とは、「ゴトーを待ちながら」や「桐島、部活やめるってよ」などと同じく、氷室という一人の狂言回しを通して様々な棋士の思いや物語を書く作品だったと言えるでしょう。氷室将介の素性や生まれ育ちは殆ど語られません。しかし、刈田や大原といった対戦相手の思いや歴史は、極めて長々と語られます。
 作者は「羽生フィーバー」を見て氷室将介を思いついたと語っています。内弟子などの厳しい修行をせず、いきなり現れ棋界を席巻した羽生世代(羽生善治二冠、森内俊之九段、佐藤康光九段など)は、当時の将棋界にとって異質な存在だったのかもしれません。

月下の棋士 七巻より

「きさまなんぞに、わしらの歴史が分かってたまるかよ!!」
「あいにくだな、そんなもん知りたくねえよ!!」

 このやり取りに全てが凝縮されています。氷室というキャラクターは、ある時点まで将棋を指す理由を持ちません。ただひたすら、強く、将棋を楽しんでいるだけです。つまり、ドラゴンボールでいうと悟空です。多くのものを背負っているのはむしろライバルキャラである佐伯や、立ちはだかる壁である大原・刈田です。

月下の棋士 七巻より

 そして、運命の局面になります。刈田は、ここで▲5五金と指せば形勢が良いということを知っていました。しかし、それでも、ここで銀を取れないなら名人経験者として名折れになる。常に「魅せる」将棋を見せたかった刈田としては、ここで銀を取らない訳にはいかない。
「馬鹿をしても勝つのが強い棋士ってもんよ」
 と語り、銀を取ります。そして、その瞬間、最大のライバル大原巌が、常に自分の挑発に乗ってくれていたことに気づく。この演出が素晴らしい。

 この将棋を見ると、作者の刈田への、いや升田幸三への愛が伝わります。刈田が敗れる理由が非常に自然で、そして刈田の強さというものを書いていながら、主人公を勝たせているからです。
 月下の棋士に登場する他の棋士は、失神したり失禁したりなぜか一手詰めを逃したり、わざと負けたり、死んだりします。この七巻では、そういった理由ではなく、刈田の棋士としての誇り、意地が、着手を誤らせました。
 棋士としての誇り、歴史と思いを背負って対局する刈田と、純粋に将棋を楽しんでいるだけの氷室。最後に、その差が勝負を分けたのです。

 翌朝。残り五分になっても、刈田は便所で着手を探し続けます。(ポケット将棋盤を持ち歩いているというのが姑息でいい)

月下の棋士 七巻より

 残り三十秒、最後のピースをくゆらせながら、刈田は負けを認めます。敗北の美学というものがあるなら、これ以上に美しい負け方はないのではないでしょうか?

羽生善治と村山聖

 将棋界において、才能というのはある意味残酷です。10代20代のうちに、ある程度順位付けが住んでしまう。天才は常に天才で有り続ける世界でもあります。これは、羽生善治二冠と、故・村山聖九段の関係に通ずるところがあります。羽生二冠は主人公です。しかし、おそらく羽生さんの人生が映画化されることは、無いのではないでしょうか。羽生さんはただ強いだけなのです。村山九段は、過剰なほど多くのストーリーを背負っています。ネフローゼと戦い、ガンと戦い、それでも名人という夢を諦めなかった村山九段。だからこそ、映画たりうる、物語足りうるのです。

 NHK杯で次回、藤井聡太六段と今泉健司四段の対局が行われます。この二人は全く正反対といえます。史上最年少棋士と、史上最年長棋士。奨励会を退会しながら、夢を諦めきれずにプロを目指し続けた今泉四段と、才能だけで記録を塗り替え続ける藤井六段。この構図にも繋がるかもしれません。

羽生に村山将棋について聞いた。

「攻めが鋭くて、勝負カンが冴えている将棋。もし健康ならタイトルをいくつか取ったでしょう」と答えてくれた。「もし村山さんが健康でも、羽生さんは七冠を取れましたか」とちょっと意地悪な質問をすると、少し考えて「もし健康ならと同情されること自体彼は嫌だったでしょうね」とだけ言った。

村山聖八段(当時)の急逝が将棋連盟に伝えられた日

 思うに、物語は敗者の、弱者のためのものなのです。勝つ人はただ勝ち続ける。だからこそ、スポットライトの当たらない側にこそ、物語が生まれるのではないでしょうか。
 久しぶりの天才棋士の登場に沸く将棋界で、そんなことを感じさせる月下の棋士七巻を是非読んでみてください。

将棋が強くなる一番簡単な方法は、考えないこと

「将棋は歩から」という本を読んだことがあるでしょうか?加藤治郎名誉九段の書籍です。

 この本は、一冊丸ごと「歩」に関する本です。いや、一冊丸ごとどころではなくて、なんと全三巻もあります。加藤先生の本気を感じます。なんといっても、将棋において、「歩」は最強の駒というわけではありません。ポケモンで言うとポッポです。ポケモンの攻略本を買ったらポッポの生態系が全三巻で書かれていたら結構びっくりします。
 では、なぜこの本は、名著と呼ばれる本なのでしょうか?

将棋は歩からで紹介された手筋

なんとここでは、18個もの歩の手筋が紹介されています。

  • 前進の歩
  • 交換の歩
  • 突き違いの歩
  • 蓋歩
  • 突き捨ての歩
  • 継ぎ歩
  • 垂れ歩
  • 焦点の歩
  • 死角の歩
  • ダンスの歩
  • 単打の歩
  • 合わせ歩
  • 十字飛車の歩
  • 連打の歩
  • 成り捨ての歩
  • 控え歩
  • 中合いの歩
  • 底歩
  • 直射止めの歩
  • 面打の歩紐歩

使われているものも使われていないものもありますが、半分くらいは未だ現役です。もちろん全てを加藤名誉九段が命名されたわけではないですが…。
これほど多くの「手筋」を発明され、体系立てて書籍にされたことこそ、加藤治郎名誉九段の特筆すべき業績と言えます。

利用可能性ヒューリスティック(想起ヒューリスティック)

 本の紹介をする前に、少し前段の話をしておきたいのですが、少し小難しい話です。認知心理学には利用可能性ヒューリスティックという言葉があります。
 エイモス・トバルスキーとダニエル・カーネマンという、心理学におけるビッグネーム、二大巨頭が書いた有名な論文で紹介されています。

カーネマンは著作の「ファスト・アンド・スロー」で、こんな例を紹介しています。

 近所の人がスティーブのことを次のように描写しました。「スティーブはとても内気で引っ込み思案だ。いつも頼りにはなるが、基本的に他人には関心がなく、現実の世界にも興味が無いらしい。物静かでやさしく、秩序や整理整頓を好み、こまかいことにこだわる」。さて、スティーブは図書館司書でしょうか、それとも農家の人でしょうか? 

 当然のことながら、多くの人は図書館司書だと答えるでしょう。わかりやすいからです。手に入るあらゆる情報は彼がトラック運転手や農家よりも司書に近いと示しています。ところが、問題があります。アメリカには、司書は農家の1000分の1しかいないのです。ということで、統計的に考えればスティーブがどれほど物静かで優しかろうとも、彼は司書よりも農家である可能性が高いと考えられます。
 このように、自らの脳から取り出しやすい情報ほど、人は正しいと思いがちです。

 カーネマンの理論に従うと、利用可能性ヒューリスティックというのは非常に重要です。言い換えるなら、正しい選択の利用可能性を上げておくことで、正しい選択ができる可能性が増えるのです。

抽象化する力

 

 例えば、先日の藤井聡太六段と糸谷哲郎八段の対局におけるこの局面。終盤です。先手の藤井六段の竜が、後手の糸谷八段の玉に王手をかけています。これを、少し専門的ですが「一間竜」と呼びます。この局面で仮に金を打って王手を防ごうとしても、銀を打てば受かりません。

 この局面で、後手は金で先手の銀を取ることが出来ません。竜が王を睨んでいるので、王が取られてしまいます。ということで△9三玉と逃げますが、▲7二竜と金を取ることが出来ます。これは、プロレベルならもちろん一瞬で分かりますし、アマチュアでもある程度のレベルに達すれば、一瞬で分かる形です。
 実践も、糸谷八段はもちろん金を打たずに△9三玉と逃げましたが、最後は藤井六段が華麗な即詰みに打ち取りました。

 結局現れなかった局面ではありますが、もし、一間竜の手筋を知っていれば、我々もプロと同じような着手が簡単にできるのです。これは、ヒューリスティックを利用してより効率的にゲームを進めることが出来たという好例ではないでしょうか。手筋を言語化されて知っているケースと、知らないケースで、どれほど変わってくるか、と考えてください。

 「将棋は歩から」の実践例で上げられているのが、大山康晴15世名人と、加藤一二三九段の対局です。

 先手の加藤一二三九段の角が1一の香車を睨んでいます。しかし、「史上最強の棋士」が指した△5五歩が好手でした。
 ▲5五角と角で取ると、△5四香といわゆる「田楽刺し」(コレも手筋ですね)が決まり、▲5五飛と取ると角が成り込むことができなくなります。これが「焦点の歩」です。
 ここでも、手筋を知っていればアマチュアでも正嫡を見つけられるかもしれません。つまり、手筋を知っているだけで大名人と同じ手を打てる確率が上がるわけです。

 理研による将棋プロ棋士の脳から直感の謎を探るによると、下記のような記述があります。

最初は、うまくいかないので、いろいろな神経回路を総動員する。やがてスムーズに処理できる神経回路が特定領域にできていくと考えられます。直感=小脳の予測という仮説でいえば、より精密な予測が可能な内部モデルができることに相当します。

 自分の中の手筋(言語化出来るものも出来ないものも含めて)を、プロは作っていると考えられます。

 冒頭に述べた「将棋が強くなる一番早い方法」は、このような「手筋」「形」を覚えることです。要は、考えなければ良いのです。考えなくてもわかるレベルまで手筋を覚えておけば、好手の引き出しが増え、その引き出しが増えれば正しい選択をしやすくなります。
 もちろん、将棋はそれだけで勝てるほどカンタンなものではありませんが、「考えなくて住む局面を増やす=形として判断できる局面を増やす」事ができれば、勝てる確率が上がるというのは決しておかしな話ではありません。
 正しい手を指すことを心がけるのではなく、引き出しを増やすことを心がけること。これが重要です。加藤治郎名誉九段は、まさにそのような「歩の引き出し」を体系化し、全三巻も書けて記載しようとされていた点で、特筆すべき研究者であったと呼べるでしょう。
 

おすすめの手筋本

寄せの手筋本、むちゃくちゃ有名ですが超おすすめです。