加藤一二三、満開の春

 

人生とはわからないものだな、と思う。

朝起きてテレビをつけると、自分が将棋を始めた時は、孤高の人、変人、頑固者、孤独な大棋士であった加藤一二三九段が、楽しそうにコメントをしている。

河口俊彦氏が、あるいは真部一男氏が存命なら、この空前の「ひふみんフィーバー」に何を語っただろうか。

加藤一二三という棋士を、将棋を知らない人はどう思っているのだろう。
神武以来の天才。史上最年少棋士。それはもちろん、間違っていない。

「加藤一二三九段は強かったの?」と聞かれれば、迷うこと無く「強い」と答える。それでも、そこにいくばくかの含みは残るはずだ。あれ程の大棋士でありながら。

大棋士、加藤一二三

成績だけを見れば、加藤九段の成績はこうなる。

  • 2505対局(歴代最多)
  • 1324勝(歴代三位)
  • 1180敗(歴代最多)
  • A級順位戦 149勝(歴代最多)
  • A級在位 36期

 

  • タイトル獲得合計8期(歴代9位)
  • 六人目の実力制名人
  • 歴代二位のNHK杯優勝など、棋戦優勝23回

堂々たる成績だ。歴史に残る棋士と呼ぶにふさわしい。
また、加藤流袖飛車や加藤流棒銀、加藤流矢倉など、「加藤流」と名のつく戦法は多数あり、60年間の現役生活の中で、数々の定跡の発展に多大な貢献をしたことにもまた、触れて置かなければいけない。

タイトル獲得数だけではなく、長きに渡ってトップクラスの実力を維持し、60代に至るまで棋界の最高位であるA級順位戦で戦い続けたことは、特に驚くべきことだ。

しかし、それでも。神武以来の天才と呼ばれ、「名人に角を引いた男」升田幸三の後継者であり、20歳で名人位に挑戦した「神武以来の天才」加藤九段にかけられた大いなる期待は、この偉大な実績以上だったのかもしれない。

「史上最強の棋士」大山康晴の時代を打ち破り、加藤時代を築くこと。それが、加藤九段に期待されたものだったのだから。

ついに「加藤時代」は来ることがなかった。加藤九段は、いつも二番手、三番手であった。だからこそ、冒頭の「加藤一二三は強いのか?」という質問には、いつも僅かな含みが入る。

加藤九段は、ついに咲かなかった花なのだろうか?いや、そうではない。加藤一二三九段が、最強の棋士であった瞬間は、たしかにあったのだ。

加藤一二三、満開の春

1982年。加藤九段が初めて名人に挑戦してから、22年の時が過ぎていた。神武以来の天才も、既に42歳。中堅の棋士であった。

加藤一二三十段(当時)は、名人、中原誠に挑戦する権利を得た。中原名人は、既に永世名人の称号を獲得。大山康晴十五世名人の後、最強の棋士として君臨していた。

名人戦は中原名人有利。残酷ながら、それが42歳になってしまった「天才」加藤一二三九段への評価だった。

昭和57年7月30日。第40期名人戦は将棋史上最も拮抗したタイトル戦となる。大熱戦のまま、史上初の第十局にもつれ込むと、最終局は中原名人有利のまま進んだ。

ギリギリの混戦の中、加藤十段は時間を使い切り、秒読みとなる。詰みを発見できなければ負ける。しかし、まだ加藤十段は発見していない。痛いほど静まり返る控室。

時間が一秒一秒なくなってくる。その瞬間。

加藤一二三十段の手ははっしと持ち駒の銀をつかむと、敵陣にいつものような高い駒音で、その銀を打ち付けた。

▲3一銀。その瞬間、将棋の神様は、一瞬だけ、孤高の天才に微笑んだ。加藤十段がギリギリの中で発見した詰みだった。タダで取れる金を無視しての銀打ち。中原名人は次の手を指すこと無く投了を告げた。

「老師」河口俊彦七段はこのように記している。

加藤にあれほどの才能を与えた将棋の神様が、一度だけでも名人にしてやろうと思ったのだろう。

加藤一二三十段は、二十二年越しで棋界の最高位、名人位を獲得。十段と共にタイトル二冠となった。名実ともに加藤十段は「最強の棋士」になったのだ。

加藤一二三、四十二歳。遅咲きの満開だった。

引退にそえて

加藤一二三九段が引退会見「名局の数々を指してきました」63年の棋士人生に悔いなし(全文)

投稿日: 約63年間に及ぶ現役生活にピリオドを打った将棋の加藤一二三九段(77)が6月30日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館で引退後初の記者会見に臨んだ。 会見した加藤一二三九段=6月30日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館 …


こんな話をしたい。加藤九段の引退に際して、ふと思い浮かんだ情景だ。

神田川を歩くと、桜の木が植えられている。桜の花が咲くのは一瞬だが、その一瞬が人の記憶にいつまでも残る。

加藤一二三九段は、もう花が散ってしまった桜の木かもしれない。それでも、花は、確かに咲いていたのだ。見事なほど満開に、誰が見ても美しく。誰もが立ち止まってしまうほどに。

そして、その満開が一度でもあったかどうかは、きっと僕らの人生においてとても重要な事だと思うのだ。

あの昭和五十七年の七月、加藤一二三は確かに、最強の棋士だったのだから。

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「失敗の本質」で学ぶ、日本に根づく「無茶ぶり」という思想とは?

「無茶ぶり」という言葉は日本の特徴的な言葉であり、日本的組織の特性を一言で言い表せる言葉だ。
この言葉を「unreasonable request」など無理に英語に訳したとしても、その裏にあるニュアンスは全く伝わらない。

この記事では、名著「失敗の本質」を紹介しつつ、日本の組織構造の中にある「無茶振り」信仰を考える。

失敗の本質

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Amazon レビューより抜粋

組織について深く熟考するための栄養として日本の歴史に学びたいのであれば、本書のまとめかたは有効なのだと思う。

太平洋戦争でのノモンハン、ミッドウェー、カダルカナル、インパール、レイテ、沖縄戦という6つのケースとして取り上げ、組織論の観点から「失敗の本質」が何だったのかをえぐっています。

太平洋戦争のことについて、その当時の軍組織の状況、戦況が詳しく記述されており、
どのような状況で、どのような方針で戦争の舵が切られてきたのかが判ります。

失敗の本質

「旧日本軍がなぜ敗れたのか?」を組織論的に研究した名著「失敗の本質」を読みながら、ベンチャー・大企業問わず日本的組織の根底に「無茶ぶりという思想」があるのではないか、と感じた。

本作の中に「海軍はある意味では絶えず自己超越を強いた組織であった」という一文がある。

海軍はある意味では絶えず自己超越を強いた組織であった。それは、主体的と言うよりはそうせざるを得ないように追い込まれた結果であった。
往々にしてその自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた。そのような精神主義極限追求は、そもそも初めからできないことがわかっていたのであって、創造的破壊につながるようなものではなかった。

求められた自己超越

「自己超越」とはなにか。それは、自分のパフォーマンス以上の能力を求められ、その課題を乗り越えることで成長する事ができる、という思想だ。
自己成長するためには、能力・キャパシティ・体力以上の努力をすることが求められ、それが出来ない人間は精神的に未熟である/やる気が無いとみなされる。

こういった思想は多くの日本的組織に通底する価値観ではないだろうか。だからこそ、「無茶ぶり」という言葉は、日本企業においては、決して否定的なニュアンスばかりではない。
振る側は「無茶ぶりしているということは君の成長を助けているんだよ、それだけ信頼しているんだよ」という言外の意図を含んで「無茶振り」という言葉を使う。
振られた側も「それだけ出来ると期待されている、成長のチャンスである」と言外の期待を汲み取って行動する。そこには一種のグルイズムが表出する。

ゼロ戦と日本

零戦の優秀さは誰もが認めるところだ。戦後に至っても、戦闘機としての大きな技術革新として高く評価されている。

(中略)

攻撃能力を限度ギリギリまで高めた名機は、ベテラン搭乗員の練度の高い操縦に寄って始めて威力を発揮した。

(一方)米軍は、防御に強い、操縦の楽なヘルキャットを大量生産し、大量の新人搭乗員をヒトという資源として活用した。

自己超越的組織において、人は思いもかけないパフォーマンスを見せる。

「人は努力することで、自分が考えているよりも多くのことを実現できる」というのは一面において紛れもない真実だ。そして、そのような経験は人にとって爽快なものでもある。
就活などでも「成長できる組織」を希望する学生が多いのも、そういった理由ではないだろうか。
しかし、自己超越を強いられる組織と、精神主義的組織は紙一重だ。精神主義的組織では、次第に現実と乖離した夢物語が語られるようになる。

物的戦力の優性な敵に対して勝利をおさめるためには、日本的精神のますますの拡充が必要である

日本軍がソ連に大敗したノモンハン事件の後、今後の課題として述べられたのが上記の一文だ。
今見れば噴飯物でしかない。このような「日本的精神」を信仰した結果、インパール作戦やガダルカナルの戦いなど、補給を無視した無謀極まりない作戦が生まれたのだ。

兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる… 

牟田口廉也

全滅インパール3

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労働研究の第一人者である熊沢誠氏が提唱した「強制された自発性」という概念がある。
例えば、過剰なノルマ、長時間労働、飲み会などの出席を「自発的に成長の機会と捉え、参加する」ことを求められること、これは「強制された自発性」にあたる。(これも英語にすると意味がわからないけど、日本人ならイメージができるのではないかと)

熊沢氏は、過労死についての記事で「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」と語っている。

熊沢は過労死問題を「強制された自発性による悲劇」ととらえる。

例えば、少しでも残業代を得るために深夜まで働くことは「自発的」とは限らない。基本給だけで生活できないのなら、そのような働き方は「強制された」とも受け取れるからだ。

「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」という熊沢の観点からみれば、祐一の死もまた、強制された自発性による悲劇といえるかもしれない。

働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史

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「失敗の本質」を読むと、「これは可能であるから実行する」「これは不可能であるから実行しない」という明確な線引を日本軍が全く行っていなかったことが分かる。
時として、日本的組織では「不可能である」と語ることは「やりたくない」という意味である、と捉えられる。

結果として可能であることも不可能なことも、建前としては「自発的」に行われ、それらは「成長」「挑戦」「修行」という美しい文言で彩られる。自発的に行ったことなので、失敗しても組織的に責任は取られない。

そして、努力と根性が極限まで美化された時、全ての組織的問題が現場のハードワークによって解決され、抜本的解決が先送りされる、ということになる。

最後に

歴史から我々が行うべきは、「無茶ぶり的精神」を持った旧日本軍という組織が現実に起き得ない結果を夢想し、それを誰も止めることができないまま悲惨な結果を招いた、という歴史的帰結を知ることと、そのような構造が今なお日本企業に存在しているというリアリティをしっかり認識することではないだろうか。

「恋愛適齢期」から考える、エピローグの始め方

年を取ってから見たい映画というのは、確実にある。
ナンシー・マイヤーズ監督の「恋愛適齢期」はその一本だ。

  • 老いてもチャーミングでユーモラスなジャック・ニコルソン
  • 老いてもまた美しく輝くダイアン・キートン
  • ひたすらクールでスマートなキアヌ・リーブス

の映画だ。

主演二人の演技がとにかく素晴らしい。五十四歳のダイアン・キートンが、見進めるたびに美しく見えてくるから不思議だ。

恋愛適齢期(字幕版)をAmazonビデオ-プライム・ビデオで

4.5 | 自分らしく生きている時が、「恋愛適齢期」。ジャック・ニコルソン×ダイアン・キートン×キアヌ・リーブス。豪華キャストで贈る、大ヒットラブ・コメディ! Rating PG-12 (C) 1995 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

 Amazon レビューより抜粋

ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンのかけあいの妙、そしてキアヌ・リーブスの美しさを楽しむ映画です。せりふ回しもウィットが効いていて面白いです。

J.ニコルソン、D.キートン、K.リーブスと豪華俳優陣を揃えながら、重厚な恋愛模様ではなく、洒脱な作品に仕上げている点が本作の持ち味だろう。特に、中高年の男女に対してはホロ苦いが勇気を与える笑い。

中高年齢の、不器用な恋模様を描いた秀作。出逢い最悪の二人がさまざまな出来事を通して徐々に、なくてはならない存在に変わっていくといった、定番的なストーリーですが、設定(ともに若い恋人的存在がある)やキャラクター、また劇中の台詞回しが、実に魅力的。

[:contents]

「恋愛適齢期」の概要

物語の概要は極めてシンプルだ。二十代しか付き合わない、と心に決めているジャック・ニコルソン演じる中年の金持ちが、偶然若い彼女と言った別荘で、彼女の母親と出会ってしまい、そこで暮らすうちに彼女の方に心惹かれていく…というストーリーだ。

物語のメッセージ

作中ダイアン・キートンが「もうこんなことは起こらないと思っていた」というようなセリフを言う。

でも、それは起こるのだ。いつだって、物語は始まることを待っている。これはとても希望に満ちたセリフである。

美しいものが失われても、まだそこには美しいものが残っているのはずなのだ。

マイ・インターン

同じナンシー・マイヤーズ監督の「マイ・インターン」。

マイ・インターン(字幕版)

4.7 | 舞台はニューヨーク。華やかなファッション業界に身を置き、プライベートも充実しているジュールス。そんな彼女の部下に会社の福祉事業として、シニア・インターンのベンが雇われる。最初は40歳も年上のベンに何かとイラつくジュールスだが、やがて彼の心のこもった仕事ぶりと的確な助言を頼りにするようになる。そんな時、ジュールスは仕事とプライベートの両方で思わぬ危機を迎え、大きな選択を迫られる──。※本編終了後特典映像あり Rating G (C) 2015 Warner Bros. Entertainment Inc. and Ratpac-Dune Entertainment LLC. All rights reserved.

誰かが言った。「人生にはプロローグとエピローグしかないんだ」と。我々の人生には決して「本編」は訪れない。

アン・ハサウェイとロバート・デニーロの、マイ・インターンはそういう映画だ。

物語の概要

定年退職して妻に先立たれたロバート・デニーロ演じる老年男性は、たまたま街で見かけた「シニア・インターンプログラム」に応募し、アン・ハサウェイ演じる若手起業家のインターンとして働くこととなる。しかし、会社は問題山積で、新しいCEOを迎え入れるかどうか悩んでいて…。

物語のメッセージ

ロバート・デニーロは、かつて成功したビジネスマンであったが、既に「終わった」人間だ。ビジネスマンとして作中彼が活躍するシーンは一つもない。

それでも、彼は全く意に介さない。飼いならされた猫のように従順にアン・ハサウェイに付き従し、礼儀正しくハンカチを手渡す。ベットでバスローブを着て二人で映画を見ても、もちろん手すら握らない。

これを「あまりにも理想化された中年男性」と呼ぶ声がある。十分わかる。

しかし、それでも、やはりそれは美しいエピローグである。それは一つの完成された結末であり、正しいことが起こっているのだ。

これが、下手にデ・ニーロが、かつての仕事仲間に取り次いだり、上からアドバイスをしたりしていたら、きっとこの映画の軸はぶれたものになっていただろう。そして、多くの映画監督ならそういう手法を取っていたように思う。

別の側面から言えば、若く成功したように見える起業家で、美しい子供がいて、優しい夫が居るアン・ハサウェイに対しても、「それはただのプロローグなんだ」と語りかけている。

そう、これは人生の本編を生きているアン・ハサウェイと、その後のまた一つの違う物語を生きているロバート・デニーロの映画なのだ。

ナンシー・マイヤーズ

彼女の作品には一貫して「終わりなんてないんだ」というメッセージがある。

ハッピーエンドにも後日談があるし、後日談の先にはまた新しいスタートがあったりする。どこかでそれは暗い終わりを迎えて、そのトンネルの向こうにはさらに新しいスタートラインがあったりする。

しかし、それは一度「降りる」事が必要なのだ。ジャック・ニコルソンでいえば、若い女性を追いかけ回すのをやめ、ロバート・デニーロで言えば、成功したビジネスマンとしての自分を捨てなくてはいけなかった。

この世は素晴らしい。戦う価値がある

こう言っていたヘミングウェイは、最後にショットガンで頭を撃ち抜いて人生に幕を下ろした。
彼のエピローグは、美しくも悲しいものだった。

ノーベル文学賞を取り、アメリカ現代文学の燦然たる旗手として数多くの作品を残したヘミングウェイの頑強な肉体と堅牢な精神はすでに過去のものになっていた。

彼はきっと、ヘミングウェイであることを止められなかったのだろう。美しきエピローグが成立するためには、やはり一つの物語を終える必要があるのではないか。重く背負っていたものを降ろして、また新しい旅に出る必要が。
そういうふうにすれば、物語は続くのだ。ゴールテープの向こう側に、また新しいスタートラインがあるように。

「帰ってきたヒトラー」とアドルフの帰る場所

「帰ってきたヒトラー」は、良質なフィクションであると同時に、現代社会と過去の連続性を切り出す、とても重要な作品だ。

帰ってきたヒトラー(字幕版)

4.2 | この映画、笑うと危険。世界中で売れまくり!ベストセラー小説を映画化!ヒトラーが現代にタイムスリップし、人気芸人に!?ギャップに笑い、まっすぐな情熱に惹かれ、正気と狂気の一線を見失う、世にも危険なコメディ!(C)2015 Mythos Film Produktions GmbH & Co. KG Constantin Film Produktion GmbH Claussen & Wöbke & Putz Filmproduktion GmbH

「帰ってきたヒトラー」Amazon レビューより抜粋

原作と映画では結構違いがあります。原作では本を出すところで終わりましたが、映画では本を出した後のことも描かれています。

映画撮影と言うことを隠して、ドイツ国民にインタビューをしたり、ドキュメンタリー風の演出をしたりと、少し風変わりな撮影をした映画でもあります。最初はただの不謹慎な物真似芸人程度の扱いだったのが、少しずつ支持を得ていく様は、映画だと分かっていてもなかなか恐ろしいです。

内容もヒトラーに拒絶反応する人達が安心?する脚色が随所にちりばめられており、目くじら立てる様なスキャンダラスシーンは無いに等しい

帰ってきたヒトラーとは?

この作品は、一部がフィクション、一部がノンフィクションだ。ノンフィクションのパートでは、アドルフ・ヒトラーが現代に蘇ったら?という設定で、実際の街の人達にインタビューを行っている、フィクションとインタビューの融合的作品だ。

主演の(もちろんヒトラーを演じた)オリヴァー・マスッチは、「まるでポップスターだった」と語り、ヒトラーとセルフィーをしたがる国民に驚いたという。

それほど、ヒトラーに対する拒否感は薄れていた。

それは、ある意味で我々の世界とヒトラーのいた時代は地続きではないか、ということを、監督のデヴィット・ベントは言っている。

変わらない世界

世界は好き嫌いで動いている。それは 1933 年も、今も変わらない。一つの人種を憎み、権力のすべてを手にしたヒトラーを、21 世紀の今我々は笑えるだろうか。
トランプはメキシコ人を追い出し、国境に壁を作ろうとしている。移民を追い出すためイギリスは欧州から離脱した。そしてテロはいつもどこかの街角で起こる。
ロンドンでは投票が終わったあとですら、「馬鹿な労働者が」「先の短い高齢者が」間違った選択をした、という声があふれた。

我々日本人も、決してそこから遠い世界に住んでいるわけではない。いつだって選挙で一番重要なのは「誰が嫌いか」だ。あいつに勝たせたくない、あいつに一泡吹かせたい。
我々の周りには、党派やイデオロギーにかかわらず「◯◯党に勝たせればいかなることがおこるか」という言説が、溢れている。

「だから◯◯党に投票するような奴らは馬鹿なのだ」と。

勝ち負けという二項対立に陥ることは簡単で、その穴は深い。

ナチスに対峙した政治家達から学べること

ナチスが権力を掌握し、全ての法律をヒトラーの意思で自由にできる「全権委任法」を成立させた、まさにその時。

唯一壇上に立って反対したのが、ドイツ社会民主党の党首、オットー・ヴェルスだった。

この歴史的な瞬間に、我がドイツ社会民主党は人道、正義、自由、そして社会主義の原理に誓う。全権委任法が諸君らにこの永遠不滅の思想を破壊する力を与えることはないと…ドイツ社会民主党もまた、この迫害から新たな力を得るだろう

ヒトラーは勢力を拡大し、やがて欧州全土を支配するに至り、その帝国は効率的にユダヤ人を殺処分するベルトコンベアと化す。
しかし、事実は、ヴェルスの言った通りだった。ヒトラーは破滅した。ベルリンを灰燼に帰した彼は全てに絶望し、地下で自らの頭を撃ちぬいた。

人道、正義、自由は死ななかった。社会民主党は荒波を乗り越え、未だにその命脈を保っている。

我々が選ぶべきこと

我々が選ぶのは、対立や勝ち負けではなく、普遍の原理であるべきだ。

それは誰もが等しく生きる権利であり、愛する者が結ばれる権利であり、子供が飢えることなく育てられる権利であり、性別や人種に関係なく自分がやりたい仕事を選ぶ権利だ。
普遍の原理は、一国家や一民族だけではなく、東京の真ん中で、香港の高層ビルの上で、イラクの食堂で、モンゴルの草原で等しく適用されるべきものでなくてはいけない。

我々は主権者として一票を投じるとき、自らの敵の泣き顔ではなく、その政治家が普遍の原理を擁護してくれるかどうか、それを想像しなくてはいけない、そう僕は思う。
ヒトラーは言った。「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい、大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」

我々が考えることをやめ、普遍の原理をシニカルに見るようになり、自らの敵の敗北を願うようになった時、「彼」はいつだって我々の中に蘇るのだろう。
そしてそれは、イデオロギーや党派にかかわらず、我々の中の怠惰さ、無責任さが引き起こすものだと僕は思う。

「かぐや姫の物語」は「風の谷のナウシカ」の続編である。

「かぐや姫の物語」は、天才・高畑勲の大傑作であると同時に、「風の谷のナウシカ」の続編である。

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Amazon レビュー抜粋

高畑勲は過小評価されすぎである。時代が彼に追いついていない。

わたしにとってこの映画は凶器でありバイブルであり高畑さんからの愛の贈り物だと感じている。ふとした時に見返したくなる作品に出会えてホントに感謝だ。

私たちはいつかきっと天の住人になるのでしょうか。この映画の絵と声と音楽には人間の本質、魂の叫びが込められています。恐るべき作品です。

こう言うと、何を言っているんだ、という声も上がるだろう。

それでも、声を大にしていいたい。かぐや姫の物語こそがナウシカの正当なる続編だということだ。

かぐや姫・虫愛づる姫

「かぐや姫の物語」を見られた方は、少なからず違和感を感じたかと思う。
「竹取物語」に出てくる姫と「かぐや姫の物語」に出てくる姫は、だいぶ印象が違う。

かぐや姫は、「よくもない顔立ちで、相手の深い心も知らず軽々しく結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないと不安です。天下の恐れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚などできません」と言う。

五人の中に、私が見たいと思うものをお見せくださったならばその御方に、御志がすぐれていると思い、妻としてお仕えいたしましょう、とお伝えください」と言う。翁は「よろしい」と承知した。

竹取物語〜現代語訳より)
「竹取」のかぐや姫は、愛が消えてしまうことへの「恐れ」「不安」を表に出しているけど、結婚そのものや宮廷生活そのものを拒否する言葉はない。
帝とも和歌でこころを交わしていて、間違いなく二人の間には通じ合うものがありました。(アニメ版の帝がいやらしすぎたのでは、という説は置いておくとして)

野山を愛し、故郷から宮廷に連れて来られた…というキャラクターは、高畑勲が作り上げた「かぐや姫であってかぐや姫ではない」主人公にすぎない。
では、「かぐや姫の物語」に出てくるあの魅力的な姫は、いったい誰がモデルになっているのだろうか。その鍵は、原作版「風の谷のナウシカ」の中の宮﨑駿へのインタビューの中にある。

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ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを思い出した。たしか、今昔物語にあったのではないかと思う、虫愛ずる姫君と呼ばれたその少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、芋虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変わり者あつかいにされるのである。(「風の谷のナウシカ」アニメージュ版より)

風の谷のナウシカで宮﨑駿監督が「ナウシカ」のモデルとして紹介した「姫」が、堤中納言物語で「虫愛ずる姫」と呼ばれた姫だ。そして、この「虫愛ずる姫」こそはこの「かぐや姫の物語」の主人公であるかぐや姫のモデルではないだろうか。

虫愛ずる姫は、日本の古典の中でもひときわ活き活きと描写された、とても魅力的なキャラクターだ。
お歯黒を塗らず、自然を愛し、物事の本質にひときわ敏感な女性だ。

この姫君は「人々が蝶や花を愛でる様は、ほんの一時的なことで良くないわ。人は誠実で本質を突き詰めようとする心映えこそが美しいのよ」と言っていろいろなたくさんの恐ろしそうな虫を採り集め、「これらが成長する様を見届けるわ」と籠箱に入れて飼っていました。

「心苦しいと思うことなんてないわ。どんなことでも根本を見極めて、その末を見届けてこそ意味があるのよ。世間のことを気にするだなんて、子供っぽいと思うわ。私は烏毛虫が蝶になる過程に興味があるの」と、その様子を取り出して見せるのでした。

虫愛ずる姫君(現代語訳)より)

「虫愛ずる姫君」では、当時お歯黒や眉毛を抜くことが常識だった中、世間の常識に従わず、虫達や生命を愛し、生きることの喜びを愛した姫君が、イキイキと描かれています。それは、下のようなセリフにも現れている。

人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ

(人々の、花や蝶を愛する心は無意味で虚しいでしょう。真の本質を探ることこそ、本当に価値があるのです)

「かぐや姫の物語」とは、「竹取物語」のプロットの中で生きる「虫愛ずる姫」を描いた作品だと言えるのではないだろうか。

ナウシカアと虫愛ずる姫君

同じモチーフにも関わらず、かぐや姫とナウシカの人生は対極にある。
ナウシカの物語は、「異世界への冒険」が主軸になっており、彼女には風の谷という帰る場所がある。
ナウシカは破壊と死の中から生を見出したが、約束された正常な世界をその手で引きちぎり、汚染された腐海で森の人と暮らすことを選んだ。

かぐや姫はあくまで異邦人であり、罪を洗い流すためにやってきた現世(下界)が、彼女にとっての異世界だ。
彼女は汚染された下界で愛する人を見つけ、翁と媼の精一杯の愛を受け、虫や、木々や、獣のはちきれんばかりの美しさを知り、そして、それを全て忘れて月へと帰った。
宮﨑駿監督は、虫愛ずる姫についてこう語っている。

社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆けまわり、草や木や、流れる雲に心を動かしたその姫君は、その後どのように生きたのだろうか・・・。今日なら、彼女を理解し愛する者も存在し得るが、習慣とタブーに充満した平安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったのだろう・・・。

これは、まさに「かぐや姫の物語」そのものではないだろうか?

残念なことに、ナウシカとはちがって、虫愛ずる姫君には出会うべきオデュッ セウスも歌うべき歌も、束縛を逃れて流浪らうあても持っていなかった。しかし彼女に、もし偉大な航海者との出会いがあったなら、彼女は必ず不吉な血まみれの男の中に、光かがやくなにかを見い出したはずである。

そう、「かぐや姫の物語」こそ、描かれなかったもう一人のナウシカなのだ。
風の谷に風が吹かず、メーヴェを持たず、しきたりと慣習に縛られたナウシカの姿こそがここにある。
我々はナウシカを知るからこそ、我々は無意識にかぐや姫が成し得たはずの沢山の冒険譚を想像し、それらが永遠に訪れないことを考え、涙する。

あふれんばかりの魅力を持った「虫愛ずる姫」を、「竹取物語」という悲劇に押しこめて。
駆け回れなかった野山を、収穫されなかった茸を、歌われなかった歌を、見られなかった笑顔を、僕らの胸の内にぽっかり空虚として残していく。

そう、高畑勲は天才なのだ。